
顧客がすでにどの企業と付き合うかをカンタンに選べ、かつ不満をもつ企業にこれまたカンタンに物申すことができるようになっているのと同様に、そのうち、企業と従業員、企業とその取引先の関係性においても間違いなくこれまでのような企業優位の形は崩れて、従業員も取引先も企業に対して対等に物申せる状況が訪れる流れになっています。
つまり、それがソーシャルテクノロジーによって実現された逆パノプティコン社会です。
政府や大企業をはじめとする既存の権威は、情報の占有・統制を通じて、その権威を構築・維持してきた。だが、ウィキリークスやフェイスブックが情報の透明化を究極まで進めることによって、既存の権威は崩壊し、新しい権威体制が再構築されていく。その可能性が示されたのである。ジョン・キム『逆パノプティコン社会の到来』
そもそもパノプティコンとは何かというと、18世紀のイギリスの思想家、ジェレミー・ベンサムが提案した全展望監視システムをもつ刑務所や学校、病院などの施設の構想のことで、その後、ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』という著書のなかで転用して、管理、統制された社会システムの比喩として用いたことから知られるようになった概念です。すべての収容者の個室が中央にある看守塔に面するよう円形に配置される形で設計されたパノプティコンの監視システムにおいては、収容者同士はお互いの姿を見ることもできないし、看守塔もブラインドがかかっており看守の姿も見えないようになっている一方、看守の側からはすべての収容者を監視することができるというように、非対称な監視・管理ができることが特徴となっています。
Web2.0なんて言葉が流行ったのよりもさらに前の時代までは、企業と顧客との関係、そして、企業と従業員の関係はこのパノプティコン的な関係にあったといえます。
ところが、それに対して、ユーザーの側が常に企業を監視することができ、その結果をユーザー間で自由に簡単に共有できる現在のソーシャルメディアが普及した環境は、まさに逆パノプティコンの状況です。
もはや企業がかつてのようなパノプティコン状態を望むのは不可能で、せめて逆パノプティコン状態を逃れ、顧客や従業員に互角に向き合えるようにするにはどうすればよいかを考えることが企業には必要だというのが、『グランズウェル』の共著者として知られるシャーリーン・リーが『フェイスブック時代のオープン企業戦略』
コントロールを手放す
シャーリーン・リーは、「謙虚に、かつ自信を持ってコントロールを手放すと同時に、コントロールを手渡した相手から献身と責任感を引き出す能力を持つリーダーの在り方」をこれからの時代に必要とされるオープン・リーダーシップだと言います。そして、そのリーダーシップを手に入れるためにはまず何よりも「コントロールを手放す」ことが必要だと言います。
ソーシャルテクノロジーの導入にあたっては、企業はもはやコントロールできるのは自分ではないということをまず認めなければならない。それができるのは、顧客であり、社員であり、取引先なのである。シャーリーン・リー『フェイスブック時代のオープン企業戦略』
ソーシャルメディアの活用に二の足をふむ企業はほとんどの場合、「ネガティブなコメントや炎上のリスクがある」というのをソーシャルメディアを活用しない理由としてあげます。でも、これは違いますよね。
実際には企業の側がソーシャルメディアを活用するかどうかに関わらず、企業やブランドに関するネガティブなコメントがソーシャルメディア上で発生するのは避けられません。炎上の対象になるものも別に企業のソーシャルメディア上での振る舞いに限られるわけではなく、むしろ、それ以外の企業活動である場合のほうが多いのですから、そうしたリスクを避けたからソーシャルメディアを活用しないというのは話のロジックが破綻しているのです。
いくらかでもコントロールを取り戻すためにも
ようするに、いまの企業におけるネガティブコメントや炎上のリスクの問題は、企業側がソーシャルメディアを活用するかどうかにあるのではなく、ユーザー側が企業と互角に発言できる方法としてソーシャルメディアを手に入れたことのほうにあるのだという社会的環境の変化を企業は認識する必要があるのです。目の前の問題を解決するためには、目の前の問題を正しく受け入れる必要があるのは当たり前の話でしょう。事実から目を背けていては事態は好転するはずもありません。
シャーリーンが「コントロールを手放そう」というのも、事態をすこしでも行動させるためです。そう。企業にとっては最悪な逆パノプティコン状態を抜け出すためです。
コントロールを手放すよう私が勧めるのは、そうすれば結果的にはいくらかコントロールを取り戻すことができるからだ。そんなバカな、と思われるかもしれない。だが相手の言葉に耳を傾け、そのパワーを尊重するのは、敵対的な行動に対抗する立ち位置につくことなのである。事態の成り行きに対して何かしらの影響力を持つにはこれしかない、と断言できる。シャーリーン・リー『フェイスブック時代のオープン企業戦略』
企業がもはや自分たちはコントロールできる立場ではないことを認めることをシャーリーンはすこしも企業にとっての敗北感宣言とは捉えていません。
そうではなく、事実として、一方が他方を一方的にコントロールする時代は終わったのだと時代を認識することではじめて、まわりを敵ばかりに囲まれているのではないかという不安から解放されるのだと言っているのです。
実際、積極的に人びとの話に耳を傾けてみれば、そこにはわるい評判もよい評判も両方存在しているはずです。そうした声のひとつひとつに耳を傾けることから、その声の主たちとの間に新しい関係をつくっていくこと。それが企業が逆パノプティコン状態を抜け出すための唯一の方法であるとシャーリーンは考えているのです。
みんなが納得するまで話し合う
ここで思い出すのが、宮本常一さんが『忘れられた日本人』で紹介している対馬の伊奈の村での寄合のエピソードです。伊奈の村で興味深い古文書を出会った宮本さんが「この古文書をしばらく拝借ねがいまいか」と頼んだところ、貸してよいかどうかを村人たちが寄合で延々と話し合いはじめたという話です。その村では、とにかく何か取り決めを行なう場合には、村の寄合の場で出席者みんなが納得のいくまで、昼夜を問わず何日でも話し合うのだそうです。
こうした寄合方式が行なわれていたのは、伊奈の村だけではなかったようです。宮本さんが対馬の別の村で古文書を見たいとお願いした際にも「総代会」という寄合の場で可否が決められることになったそうです。
宮本さんは、何かしら取り決める必要がある場合に寄合方式の会合を開き、そこで全員が納得するまで話し合う全会一致の方式がとられていた地域が西日本の村には多かったと述べています。
日本中の村がこのようであったとはいわぬ。がすくなくも京都、大阪から西の村々には、こうした村寄りあいが古くからおこなわれて来ており、そういう会合では郷土も百姓も区別はなかったようである。領主-藩士-百姓という系列の中へおかれると、百姓の身分は低いものになるが、村落共同体の一員ということになると発言は互角であったようである。宮本常一『忘れられた日本人』
興味深いのは、身分にかかわらず互角に話合いが行われていたという点です。
村の経済を司る裕福な郷土も、貧しい百姓も区別なく一堂に会して、互角な発言を通じて、みんなが納得するまで話し合う寄合方式。宮本さんをして「眼の底にしみついた」と言わせたその情景は、どこか現在のソーシャルメディアが浸透し企業と顧客が互角に話ができるコミュニケーション環境に似ているような気がします。
おしゃべり空間特有の共同体意識
もうひとつソーシャルメディアのコミュニケーション環境と村の寄合が似ているポイントがあります。それは両者とも、論理的に組み立てられた文章的な場であるというより、口頭ベースのおしゃべり空間的なところです。みんなが納得のいくまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。
話といっても理屈をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話しに花がさくというのはこういうことなのであろう。宮本常一『忘れられた日本人』
僕は、実のところ、このおしゃべり空間的な特性こそが、現在のコミュニケーション環境を理解する上では大事な特長だと考えています。
とうぜんながら、本などのメディアにまとめられた文字ベースのものに比べると、おしゃべりベースでの情報の共有はよりリアルタイム性や一体感が求められます。
村の寄合などはその場にその時間にいる人以外に話の内容を共有することがむずかしいのは当たり前だとしても、いまのTwitterやFacebookのコミュニケーションもある程度のリアルタイム性やその時、その場の共有という要素がコミュニケーションにおいて重要な要素となっています。
そういうリアルタイム性が重視されたコミュニケーションの場だからこそ、共感や一体感が生まれやすいということもあるでしょう。まさに「話に花がさく」のは、そうしたリアルタイムなおしゃべり組み立てられただからこそです。
その共感や一体感を生む力が、個々人がそれぞれの時間に読む本からは生じ得ないコミュニティや共同体を発生させるのではないかと思っています。逆にいえば、これまでのような個々人同士が競争しあうような自己というのは、すこしずつ薄れていくのかも知れません。
このあたりは引き続き考えてみることにして、今日のところはこのあたりで。
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