記号や文字だけが情報ではない
例えば、ブランドというものを考えてみるとよいのかもしれません。その価値はどうやってつくられるのでしょうか?
商品そのものの品質。顧客に対するサービス。顧客のあいだや場合によっては競合他社からも認められる評判。店舗のデザイン。パッケージのデザイン。誰もが価値を認めるブランドの理念とそれが実現された姿など。
それらすべてを情報と呼ぶことは間違っていないのではないかと思います。
ブランドが顧客やその他の人と接するすべてがブランドの価値を伝えるための情報と考えることができるだろうと思いました。
そうなると、情報と物自体、あるいは情報と経験を区別するものはありません。
西垣通さんによる情報学において、基本となる情報を生命情報と呼び、「生物にとって意味があるもの、価値があるもの、生物に刺激をあたえ行動を促すもの」として定義しています。
生物には情報が必要です。生きるために敵や餌を見分けるための情報が必要です。
西垣通さんは生物が生まれたとき、情報が生まれたと『情報学的転回』に記しています。
同様に、私たちが生活するうえでも情報は必要なものです。
もちろん、その場合の情報は、文字や言葉で伝えられるものだけを指してはいません。
マーケティング情報を定義する場合でも、記号(文字)によって交換可能な形で表現されたものだけを情報と呼ぶのではなく、「顧客にとって意味があるもの、価値があるもの、顧客に刺激をあたえ行動を促すもの」として定義してみてもよいのではないかと思いました。
そこには先のブランドの場合にあげたような商品やサービスそのものも、従業員の接し方やお店の雰囲気、語り継がれる歴史や評判など、すべてが情報として扱うことができるのではないかと思います。
Webコミュニケーションと企業の関係
そうなると、情報は現在のインターネット環境、IT技術だけで扱えるものではなくなってきます。そのとき、はじめてWebでのコミュニケーションと企業そのものの役割の関係性を語れるのではないかと思います。
Webでのコミュニケーションだけでは、マーケティング情報のすべては伝わりません。
しかし、企業がWebを公開しているなら、Webでのコミュニケーションはマーケティング情報の一部となります。
企業そのものの考え方、姿勢、行動スタイルが、Webでのコミュニケーションにあらわれていなければ、統一されたブランド価値は生まれませんし、下手すれば、両者の間のギャップがブランド価値を損ねることにもなりかねないでしょう。
企業活動そのものが情報
企業の活動そのものがまず情報です。しかし、活動の現場を目にした人、体験した人にしかわからない情報です。
それをより広い範囲の人々に伝えようとすれば、そこには文字や言葉が必要となります。
その言葉は口コミや評判という形で伝えられるかもしれませんし、Webに掲載されたり、新聞や雑誌に印刷された言葉として伝えられたりします。
あるいは、企業の従業員から直接伝えられることもあるかもしれませんが、その場合は従業員の言葉は、従業員その人の態度や姿勢という企業情報とともに伝わるでしょう。
そうした企業情報として伝わるすべての情報をマネジメントするには、単に言葉として何を伝えるか、何を言えばいいかをマネジメントするだけでは不十分です。
ブランドとして統一した価値を伝えようとするなら、ブランド価値そのものを企業のすべての人に染み込ませなくてはなりません。
それができてはじめて言葉や態度はブランド価値を反映したものなるはずです。
それを実現するのは一筋縄ではいかないでしょう。
しかし、着実にひとつひとつ積み重ねていくなら不可能なことではありません。
ただし、「着実にひとつひとつ積み重ねていく」ことの大事さ、むずかしさを理解していない企業ではそれはできないでしょう。
そして、企業の示すすべてが情報として流通してしまうことの重要性を認識していない企業には、決して実現することができないことなのではないでしょうか。
この新しい情報社会という名の社会環境において、私たちの会社の活動、私たちの会社が発信する情報が「顧客にとって意味があるもの、価値があるもの、顧客に刺激をあたえ行動を促すもの」となっているか、どうすればそうなるかをあらためて見つめなおす必要があるのかもしれません。
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