モノではなくヒトをつくる

いまの時代、僕らはモノではなくヒトをつくることにより一層注力しなくてはいけないのではないでしょうか。

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少子高齢化だから子作りに励めとかそういう話ではありません。
ますますソーシャル化して組織における人材に求められるものもP2Pのピアとして機能する人、ピンで機能するチカラのある人が求められる時代にあって、組織のマネジメントにおける「人事」の重要性がよりいっそう高まってくるのではないでしょうか、という話。

下の人間が経験する時間を奪わない

その意味で、このソーシャルな時代に組織のマネジメント層に求められるのは、自分たちで商品やサービスやらのモノをつくったり、事業というコトをつくりだすことではないはずです。自分たちが躍起になってアイデアを捻り出すより、そうしたモノやコトを生むことができるヒトをつくることなのだろうと思います。そして、そうしたヒトが組織の外の人たちとともに物事を生み出していくことを支援することだと思います。

さらにヒトをつくるという面からみると、マネジメント層が自らモノやコトをつくることに躍起になってしまうことが障害になることさえあると思います。
なぜ障害になりうるかといえば、ヒトが育つためには自らモノやコトをつくりながら自分自身をつくっていくという経験をする必要があるのですが、そういう経験をする時間が上から押し付けられたモノづくりやコトづくりに奪われてしまうと、ヒトづくりの時間が組織から失われるからです。

ヒトをつくろうとしたら、マネジメント層は積極的に、自分以外のヒトが自分自身でモノやコトをつくれるよう支援しないといけません。そして、モノやコトをつくれる環境、テーマ、リソースなどを積極的に提供して、ヒトが自らをつくる時間を与えてあげる必要があります。
それがソーシャルな時代にますます必要とされる人事、マネジメントでしょう。

どんなによいアイデアも単にいま最良であるに過ぎない

経験ある人間はつい自分のアイデアを過大評価して、そのアイデアの実現を求めがちです。しかし、経験のある人ほど、それを実現する作業は下の人間にまかせてしまわないとできなかったりもします。

ところが、そうやって実現するアイデアは、どんなによく評価しても、たかだかいまの時点で最良のものでしかなく、そのモノをつくるのをあきらめてヒトをつくる方に時間を回した場合に得られる将来のアイデアには到底かなわないはずです。

いま最良のものは将来のそこそこのアイデアにはかなわないと自覚しつつ、上の人間は下の人間に賭ける必要がある。
それができなければ、単にそれができたまわりの組織に負けていくだけなのです。

誰とどんな経験をしたか、誰とどんなつながりがあるかが重要

モノではなくヒトをつくるということで僕がイメージしているのは、そういうことです。

いま必要に思えるモノを手に入れるために、将来不可欠な人材をつくる時間を失ってしまっては元も子もありません。そういう近視眼的な見方が取り返しのつかないミスになるのが、個々のヒトの力(特にどんな経験をどんな人たちとしてきて、いまはどんなつながりがあるのか、など)がこれまでとは比べられないほど、価値をもつのがソーシャルの時代ではないかと考えます。

過剰消費の20世紀には、信用履歴や広告、所有物によってその人が定義されたのに対し、コラボ消費の21世紀には、評判や属するコミュニティ、何にアクセスできるか、どうシェアするか、また何を手放すかが、人を定義するだろう。
レイチェル・ボッツマン&ルー・ロジャース『シェア <共有>からビジネスを生みだす新戦略』

「評判や属するコミュニティ、何にアクセスできるか、どうシェアするか、また何を手放すかが、人を定義する」。ソーシャルの時代にヒトの活かし方を考えようとすれば、このことをしっかりと理解する必要がある。組織のマネジメント層は、自分たちの会社のスタッフが、どんな経験を組織の外部の誰として、どんなつながりをいまも持っているかとか、どんな知識(をもった人)にアクセスできるか、過去にどんな知識にアクセスしてきたか、どんな知識にそのヒトの名前が関連づけられているか、といったことこそを重視して、そうした人材をいかに多く育成できるかを一番に考える必要があるはずです。

そうしたつながりこそがソーシャルな時代における何より重要な価値でしょう。だとすれば、組織のマネジメント層が管理しリードする必要があるものがそれ以外にあるでしょうか。

そういう大事なことを考え、やらずに、これまで同様にモノやコトをつくることばかりに頭を働かせていたら、ちょっとあやういのでは…。
僕もとにかく意識をシフトさせていかないとと日々感じます。