中世の覚醒/リチャード・E・ルーベンスタイン

長い間、西ヨーロッパから失われていたアリストテレスの著作は、レコンキスタでムスリムの支配から脱した12世紀のスペインで再発見されます。実に1000年近く、西欧の人々に忘れられていたギリシアの哲学者の思想は、当時のキリスト教者にとっては異教の敵であったはずのムスリムの人々の手で守られてきたおかげで、西欧の人々の視線のうちに復活したのです。



それが中世スコラ学を生む原動力ともなり、さらには近代の科学革命にもつながる西欧思想の源流ともなった「アリストテレス革命」のはじまりでした。同時に、それは古代と近代のはざまで実現した「信仰と理性が手を結んだ希少な時代」でもあったのです。

ヨーロッパ中世の歴史に疎い僕らはつい、ヨーロッパの中世というと「暗黒の時代」だと思い込みがちです。
しかし、実際には、本書で著者が明らかにしてくれたとおり、ヨーロッパ中世の1000年がまるごと暗黒に包まれた時代というわけではありません。少なくとも本書で「知の革新」「信仰と理性の蜜月」の時代として描かれた12世紀から13世紀に関しては、近代化を進めた啓蒙の時代とは別の考え方で、「蒙(くら)きを啓(ひら)いた」時代であったことが本書を読むとわかります。

アリストテレス革命を再現することによって、私たちはおのれがコペルニクス、ガリレイ、アダム・スミス、トマス・ジェファーソンの子どもであるにとどまらず、アリストテレスの子どもであることを理解する。そう、私たちは、近代的なるものの欠陥が明らかになるにつれてより興味深く啓発的に思えてくる、中世の伝統の後継者なのだ。

アリストテレスを再発見し、それをキリスト教の信仰と同居させようとした中世のキリスト教者の知的格闘があればこそ、その後の知的発展があったのだということがこの本を読むと納得できます。
そして、著者もいう「近代的なるものの欠陥」が近代のはじめに中世的なものを無理やり捻じ曲げて忘れさせたことにも由来しているであろうことにも気づかせてくれる。そんな点で、西欧の中世からは遠く離れた僕たちにも、無縁とは思えない、とても興味深い一冊でした。


イスラム経由でのアリストテレスの再発見

さて、ローマ帝国がゴート族の強襲によって滅亡して以来、西欧から失われていたアリストテレスの著作は、その後、東ローマ帝国を経て、イスラムの人々の手に渡り、その知でさまざまな注釈書などを生む形で十分に研究された後、冒頭にも書いたとおり、12世紀のスペインの地で、再び、西欧の人々の手に帰ってきます。

だから、スペイン人が再び、アリストテレスの著作に接した際、それはギリシア語ではなくアラビア語で書かれていたのであり、さらにそれだけでなく膨大な注釈書といっしょに発見されたのでした。

それはちょうど、古ぼけた容器に納められた文書を発見したところ、古代のアインシュタインと称すべき人物の著作ばかりか、アインシュタイン自身も含めた現代の物理学者たちによる注解書や応用例、改訂版まで揃っていた、というような具合だった。これらの注解書のおかげで、アリストテレスの著作はすぐに利用できる形-そして、おおいに議論を招く形で-西ヨーロッパに再登場した。

キリスト教者たちにとっては、このイスラムの「注解書」とともに発見されたことが大いに意味がありました。というのも、神という思想をもたない、きわめて自然科学的なアリストテレスの哲学を同じく一神教の信者であるイスラムの人々が自分たちの現実にあわせて解釈してくれたことは、キリスト教者たちが信仰とアリストテレスの哲学を調和させるヒントを大いに与えてくれていたからです。

それゆえ、アリストテレスの思想は1000年近い時を経ての再発見であるにもかかわらず、「すぐ利用できる形」で受け入れられるとともに、「おおいに議論を招」いたのでした。
イスラムの注解書は、アリストテレスの思想をキリスト教に近づける役割を果たすと同時に、近くて似ているからこそ、相違点や矛盾を目立たせる形でも働き、当時のキリスト教者たちの間に論争の種をまいたのでした。

ヨーロッパに再登場したアリストテレスの思想は後世のいかなる発見ともまったく異なる力を発揮して、社会に革命的な変化をもたらした。
(中略)
なんと、フランシス・ベーコン(1561-1626)、ルネ・デカルト(1596-1650)が高らかに「科学革命」を宣言する400年以上も前に、近代的とみなしうる-合理主義的で、現世主義的で、人間中心主義的で、経験主義的な-ものの見方が、西ヨーロッパ全域で文化戦争に火をつけ、旧来の文化の中核にあった伝統的な宗教信条や社会通念に挑戦したのだ。信仰と理性の闘争は通説とは異なり、コペルニクス(1473-1543)の地球中心説への挑戦や、ガリレイ(1564-1642)の異端審問によって始まったのではない。それは、12世紀から13世紀にかけてのアリストテレスの思想をめぐって交わされた論争に端を発していたのだ。

ただ、この信仰と理性をいかに融合させるかという格闘こそが、中世の代表的な思想ともいえるスコラ学をつくったのです。
前々回のエントリー「知はいかにして「再発明」されたか/イアン・F・マクニーリー&ライザ・ウルヴァートン」で紹介した、ヨーロッパでの知の装置が「修道院」から「大学」に変遷したのも、まさにこのアリストテレス革命の時代であり、信仰と理性の融合のために論争を交わした議論の時代だったのです。

12世紀のヨーロッパの発展

さて、アリストテレスの再発見があった12世紀のヨーロッパは、スペインでのレコンキスタというヨーロッパ人にとっては明るい出来事があったのみならず、「ヨーロッパ人の生活を規定する物質的・社会的条件が11世紀以降劇的に変化していた」時代でもありました。

急激に進む気候の温暖化は凍てついた北方の海を溶かし、中央ヨーロッパの海面を上昇させるとともに、1世紀以上にわたって農業に好適な気象条件を提供した。農業技術の改良によって食料生産が増大し、人口の大幅な増加が可能になった。それまでヨーロッパには移住と侵略の波が絶え間なく打ち寄せていたので、人びとの生活は常に危険と混乱に覆われていた。この移住と侵略の波がしだいに穏やかになり、やがて止むにつれて、経済が拡大発展するペースが加速された。人々は森林を開墾して沼地を干拓して、せっせと農地を拡大した。

アリストテレス革命と呼ばれた知の革新も、「知はいかにして「再発明」されたか/イアン・F・マクニーリー&ライザ・ウルヴァートン」でも書いた教師と学生による知的同業者組合としての大学の成立も、こうした12世紀ヨーロッパの社会的安全の確立と経済的な発展を背景にしていたのです。
砂漠の宗教として清貧を重んじ、僻地に置かれた修道院が、都市の大学に知的装置の座を受け渡したのも、ほかの同業者組合の成立同様に、都市での人口増加が大きな要因だったといえます。

その後、彼らは十字軍に従軍して東方の知で新たな土地と機会を見出した。至るところで(商人や職人や知的職業人の同業者組合-ギルド−や、宗教団体などの)新たな社会的ネットワークが誕生し、旧来の領主と農民の関係に新たな人間関係が加わった。商業活動がふたたびさかんになり、村は町に変容し、町は都市に成長した。

そして、現代もそうであるように、都市への人口の集中は、経済的な格差を生む要因ともなります。中世においても、この経済的な格差と人口の集中が民衆の運動を引き起こしました。
そこで、これも現代でも同じですが、新しい考え方というのは旧来的な権力のなかで育まれるというよりも、旧来の権力に不満をもつ側ではぐくまれる傾向があります。アリストテレスの思想を受け入れたのも、旧来的な修道院の側でなく、都市で力をもちはじめた大学のなかであり、カトリックのなかでも新しく登場してきたドミニコ会やフランシスコ会のような托鉢修道会のような新しいグループの中ででした。


理性と信仰を融合させた神学

いわゆる神学を、従来の大学における学芸学部に対して確立したのは、ドミニコ会やフランシスコ会の修道士たちでした。
スコラ学の大成者として知られるトマス・アクィナスはドミニコ会士ですし、ロジャー・ベーコンはフランシスコ会士です。
もちろん、トマス・アクィナスやロジャー・ベーコンがそうであったように、ドミニコ会士もフランシスコ会士も理性と信仰を対立するものと見ることはなく、あくまで信仰のために理性を用いるためにはどうしたらよいかという姿勢で神学を志したのでした。

ドミニコ会の神学者もフランシスコ会の神学者も、今日いう意味での「原理主義者」ではなかったのだ。彼らは伝統主義の熱烈な擁護者だったが、ヨーロッパの覚醒は不可逆な現象であり、理性という道具は-たとえ異教の哲学者が発展させたものであっても-長い目で見れば正統的宗教を利するように使うことができる、と信じていた。その結果、西ヨーロッパの地の歴史がきわめて重大な転機を迎えたときに、最も戦闘的で確信に満ちた信仰の守護者たちが、新しい知識の最も熱心な擁護者となった。

ドミニコ会もフランシスコ会も、異端と戦い、カトリックの腐敗と戦った宗教的熱情の強い人々でした。新しく都市に生まれた民衆との関係も結んだのも、これら托鉢修道士たちであり、そうした人々が宗教的熱情ゆえにアリストテレスの思想を積極的に受け入れたのでした。

中世の終わり

しかし、こうした理性と信仰の蜜月も、中世の社会の力関係において国王や貴族などの俗的な権力の力が強固になっていくとともにあやうくなりはじめます。そして、カトリック教会内部でも統制が失われていき、宗教戦争への道を進み始めます。。

1309年以来、教皇庁はアヴィニョンに置かれていたが、1378年にアヴィニョンとローマがそれぞれ強行を擁立し、相手側の教皇を詐欺師ないし「対立教皇」と称するに至ったのだ。(中略)大離教が解決されてわずか1世紀のちに、マルティン・ルターというドイツ人修道士が教皇制度に心底幻滅し、これよりはるかに大きな教会分裂の引き金を引くことになる-それによってキリスト教会の一体性は終わりを告げ、ヨーロッパ大陸は宗教戦争に突入したのだ。

しかし、14世紀のヨーロッパをおそった不幸は、この宗教戦争だけではありませんでした。
200年にわたって続いた経済成長は終わりを告げ、各地で領主と濃度、大貴族と小貴族、傭兵と市民などの異なる人々のあいだで衝突が生じました。気候は悪化し、小氷河期とよばれる時代に突入していましたし、黒死病が流行し、ヨーロッパ大陸を荒廃させていたのです。僕たちが知っている「暗黒の時代」はまさにルネサンス前夜のこの時期のヨーロッパをさすのでしょう。

そうした中世のコンセンサスがことごとく崩壊していく中で、アリストテレス革命と呼ばれた中世の信仰と理性の蜜月も最後のときを迎えます。そのとき、登場してきたのが「オッカムの剃刀」という言葉で知られるウィリアム・オッカムというフランシスコ会士でした。オッカムは剃刀の名のとおり、旧世代の神学の誤謬を容赦なく切り捨てていきました。そのオッカムの思想にはそれから後の近代経験科学の胎動がたしかに感じられます。

しかし、それでもオッカムはまだ最後の中世神学者でした。
その後のフランシス・ベーコンらがスコラ学を完全に否定し、経験科学の道への歩みを一気に加速したのに比較すると、どんなに切れ味の鋭い批判を加えようと、オッカムはまだ神への信仰をすこしも疑ってはいなかったのです。

このオッカムが最後まで捨てなかった信仰と理性の融合の可能性の有無こそが中世の人々の思考と、近代以降の僕らの思考を決定的に隔てるものだと感じました。そして、冒頭で引用した「近代的なるものの欠陥」をどうにかするためには、再び、フランシス・ベーコンらが消し去った中世の記憶を取り戻す作業が必要なのでしょう。それがこの本を読んだ僕の一番の感想です。



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