2011年06月17日

2つの正しさがあるのではないだろうか。

2つの正しさがあるのではないだろうか。



ひとつは科学の実験のようなだれもが正しい手順で正しい方法を用いれば正しい結果が再現可能なような正しさ。
もうひとつはスピード感のある動きのなかで、その動きに参加している者たちがほとんど疑問も抱くことなく一体感を感じられるような正しさ。

イメージするのは、前者が印刷本の世界、後者が写本の世界です。あるいは、録音された音源とライブ演奏とみてもよいでしょう。
いずれにせよ、後者の正しさは誰かひとりが判断できるものではなく、場に参加する人たちのコミュニティにより判断されるのが面白いと思っています。
そして、僕がこうした違いに興味を持っている理由は、人びとが互いにつながって、ある意味お互いにつねに監視された状態にある現在のソーシャルの世界が、つねに人びとが同一の場に参加しあっている状態とみることもでき、それゆえにより後者の状況の色合いをより濃くしているのでないかと感じているからです。

言葉のアクロバティックな応酬は見事な芸術と機械仕掛けの「いかさま芸」の間をあざとく揺れる

しかし、この移ろいゆく場の参加型の正しさへのシフトはまさに17世紀以降の世界が嫌って、場のコンテキストに囚われないユニバーサルな正しさを希求した動きと正反対の動きであると見ることができます。

以前に『ヴィジュアル・アナロジー―つなぐ技術としての人間意識』『グッド・ルッキング―イメージング新世紀へ』などの著作を紹介したバーバラ・M・スタフォードは、啓蒙〜ロマン派に至る17〜18世紀のレクリエーションと教育の方法やそれに対する人びとの意識の変遷を分析した『アートフル・サイエンス―啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育』という本のなかではまさにそうした近代が新しい正しさを希求した動きが紹介されています。中世以来の写本的で、話しことば的な文化が、印刷物的で、文字的な文化に変容するなかで人びとの意識がなにを望んだのかをスタフォードは丁寧に描いています。

その本のなかで、スタフォードは、啓蒙時代の人びとが印刷・文字的な文化の「正しさ」を知るなかで、旧来の写本・話し言葉的な文化の一体感を生み出していた巧みな話術に疑いを持ちはじめた様子を紹介しています。

言葉のアクロバティックな応酬は見事な芸術と機械仕掛けの「いかさま芸」の間をあざとく揺れる。自らの画技をこれ見よがしに見せつける絵の画像と同じように目くるめくような能弁に酔う曲芸じみたお喋りは悪趣味とされた。
(中略)
既にして17世紀の宗教闘争の中で、北方プロテスタントたちが抽象的な読み書きを目指したのは、人をあざむく語、人を惑わせる聖像に拠る「ローマ的伝統」を打破しようとしてのことだった。18世紀を通じてカトリックは、活字の教育力に頑なに抗い、度しがたく迷信や聖遺物崇拝に溺れた、庶民たちの大衆的文化と同義語であった。

ギリシアの時代にソクラテスがソフィストの巧みな弁舌を嫌ったのと同様に、17〜18世紀のヨーロッパにおいてはごく一般的な階級の人びとの間にも、あまりにうますぎる話にはうさんくささを感じるようになりました。プレゼンテーション技術という能弁のワザを人びとがこぞって手に入れたがる現代の価値観とはまさに反対です。しかも、そのいぶかる眼は、巧みな話術にのみに止まらず、手品師やいんちき医者のように疑われても仕方がない人びとの手業だけでなく、芸術家や科学者の業も含めて、普通は目に見えないものを見えるようにして見せる手業のすべてを詐欺扱いしたのが啓蒙の時代だといいいます。
そして、それは「迷誤をうむ危険な源であるから、教会の指導なく読むことまかりならぬとするカトリックの書物観を嘲るかのように、ルター派もカルヴァン派も個人的読書の習慣を奨励した」と言うように、話し言葉や参加の儀式を重視したカトリックへの疑念と重なり、印刷された書物を静かに個室にこもって読むプロテスタント的な行動へのシフトを促したのです。
「動きのなかで、その動きに参加している者たちがほとんど疑問も抱くことなく一体感を感じられるような正しさ」から、「科学の実験のようなだれもが正しい手品でだれもが方法を用いれば正しい結果が再現可能なような正しさ」への移行です。

「蒙きを啓く」とは、あらゆる種類の詐欺から、その仮面を、そのだましの戦略を大衆に教えることによって剥ぐことの謂に他ならなかった

ただし、科学的な方法が最初から順風満帆に受け入れられたというわけではありません。

近代初期の人にすれば「科学」も「魔法」も同じにしか見えなかった。ジャン・バッティスタ・デッラ・ポルタの『自然魔術』における、偽の宝石を作り鉛を水銀に変えた、という記述は「自然は真空を嫌う」という古くからの格言に挑戦すべく釣り鐘型のガラスの容器内の空気を抜いて鳥を窒息死させた、ロバート・ボイルの有名な空気ポンプの実験ほど信用できない、と言い切れる人間はどこにもいなかった。
イアン・F・マクニーリー&ライザ・ウルヴァートン『知はいかにして「再発明」されたか』

“近代初期の人にすれば「科学」も「魔法」も同じにしか見えなかった”。
科学の実験もまさに魔法と変わらない、見えないものを見えるようにして見せる手業にみえたのです。

この魔術と科学の間に、いかさまと正しさの境界線をひく作業が近代初期の大きな課題でした。もちろん、魔術と科学以外の領域においても、人を欺く技術といつわらないものを誠実に提供してくれる技術を見分けるためにはどうすればよいかを探ったのが啓蒙の時代でした。

知的ならざるがらくたを小器用にでっちあげる小手先の技術屋は新哲学者たちの詐欺指弾の恰好の標的となった。要するに、「蒙きを啓く」とは、あらゆる種類の詐欺から、その仮面を、そのだましの戦略を大衆に教えることによって剥ぐことの謂に他ならなかったのだ。

「蒙(くら)きを啓(ひら)く」啓蒙の時代は、人びとが望んだのはまさに暗いブラックボックスの闇のなかに隠された手品のたねを明るみの下にさらけ出すことだったといえます。
こうした傾向をスタフォードは、誠実さ狂いの啓蒙時代と称しています。

誠実さ狂いの啓蒙時代と本物狂いのロマン派の時代

さて、この啓蒙時代の誠実さとそうでないもののあいだに境界線を引くという目標が達成されたのかというと曖昧です。

ただ、冒頭にあげた2つの正しさという観点からいうと、ユニバーサルな正しさを手に入れることが容易な社会がさまざまな大量複製技術などの恩恵で実現したことで、啓蒙時代の人びとが問題視したような「いかさま」と「誠実さ」が混在一体となって見分けのつかない状況はなくなったという風にもみることができます。
啓蒙時代のあとのロマン派の時代をスタフォードは、倫理的な本物狂いの時代と称するのですが、そのロマン派の時代が問題視したオリジナル(本物)とコピー(偽物)という、地球の表面だけではなく人びとのあたまのなかも含めて人工物が覆いつくした今では意味をなさない区分といっしょに、誠実さとそうでないものという区分もあまり価値のある区分ではなくなったとみたほうがよいのではないでしょうか?

そんなユニバーサルな正しさを志向した世界も、冒頭に書いたように再び、リアルタイム参加型の非常にコンテキスト依存の高い正しさを希求する傾向を示しはじめているのが面白い。
このあたり、すでに書いたような話し言葉文化的な傾向へのシフトや、写本時代には普通だった特定の著者をもつことにこだわらない書籍編集とソーシャルなキュレーションの関係などと、実はソーシャル時代にシフトする中での情報のデザインの作法の変化や知識の組織化について新しい方法が求められていることとか、いろいろ仮説が頭に思い浮かんでいるのですが、話が長くなるので、そのあたりはまた別の機会に。

 

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posted by HIROKI tanahashi at 22:23| 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする