2011年05月20日

今起こっていることを読み解くには「パラダイムを認識し分節する能力」が必要

一般の人にはある程度、古さをもったもののほうが人気があって、新しすぎるものがなかなか一般の人に受け入れられないのは、古今東西変わらなかったりするのではないかと思います。

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新しいものが受け入れられないのは、それを評価する視点を持たず、かつ自分で評価の視点を新たにつくり出すなんてことは普通の人にはなかなかできないからであって、その点、古いものが評価されるのは、評価の枠組み自体がすでに共有されているからだったりします。

つまり、言い換えると、人はそれだけ評価の枠組みが定まらない(ようするに、何だかわからない)ものが苦手だということです。
わからないものに対してみずから積極的に新たらしい評価の枠組みをつくろうとして、あれこれ考えたりすることが苦手ということです。
苦手というか、どうしたらいいかわからないのでしょうし、場合によっては、どうにかすべきことだとさえ認識していない人もいるのでしょう。

ある事実が範例として採用されるとき、そこに新しい規則が生まれる

けれど、そういうわからないものを積極的に評価できる人が、センスがある人、できる人と呼ばれたりもします。評価の枠組みが定まらないところに、とにかく正解だの不正解だのなんて馬鹿げた話は置いておいて、とにかく対象を評価してしまう。実は、そこには評価の明確な基準などはないのだけれど、ただ、その評価を行ったという事実が範例となり、後の人びとに評価の枠組みとして使われたりします。

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哲学者のジョルジョ・アガンベンは、この範例が新たな基準・ルールを生み出す動的な過程をパラダイムと見ています。

パラダイム的な事例のたんなる提示こそが、それ自体として適用されることも言表されることもありえない規則を構成するのである。
ジョルジョ・アガンベン『事物のしるし 方法について』

パラダイムははじめ単なる事例として提示される。それが範例として認められる際、それは規則を生じさせるようなパラダイムとして機能するということをアガンペンは丁寧に分析しています。

まさにパラダイムシフトというのは、古い規則しか存在しない状況で、現実に対してある新しい評価を何の基準にも頼らず生み出したという現実的な事例が模範となった際に、新しい規則の認知とともに起こるのだといえそうです。

パラダイムを認識し分節する能力が新しい読み=評価の枠組みを発生させる

これは何も新しい出来事が新しく起きているときだけに限りません。
何よりアガンペンは、考古学こそがパラダイム論だと言っているくらいなので。

その意味で、考古学はつねにパラダイム論である。アーカイヴの史料を検討する手腕だけでなく、パラダイムを認識し分節する能力こそが、研究者の序列を規定するだろう。実際、結局のところ、それ自体では活力のない年代的なアーカイヴの内部に〈断層〉を生み出し、そうしてアーカイヴを読みうるものにする可能性は、パラダイムにこそ依存しているのである。
ジョルジョ・アガンベン『事物のしるし 方法について』

という具合で、アーカイブの史料のなかに、それまで存在しなかった評価を導入することで、それまでの評価との間に〈断層〉を生み出し、新たな読み=パラダイムを発生させる。
もちろん、これは何も考古学的なアーカイブが対象でなくとも当てはまることで、現在起こっている事柄を読みうるものにする可能性も「パラダイムを認識し分節する能力」に依るということがいえるはずです。

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パラダイムはアナロジー思考で範例を見出す

アガンペンは、さらにパラダイムの個別性=範例的な性格を明らかにするために、帰納や演繹とパラダイムの違いについて以下のように述べています。

アリストテレスは、パラダイムによる手続きを帰納および演繹から区別している。
(中略)
帰納が個別から普遍へ進み、演繹が普遍から個別へ進むのにたいして、パラダイムを定義するのは第3のパラドクシカルな運動であり、個別から個別へと進むのである。
ジョルジョ・アガンベン『事物のしるし 方法について』

アガンペンも明確に述べていますが、これはアナロジー思考です。類推により個別から個別へ進む思考法であって、なんらかのルールに基づいて次の個別に進むのでもなく、次に進むことで普遍性へと連なる仮説を生じさせようとする頭の働きでもありません。
ようするに、古い既存の評価軸を使って評価しようとするのでもなく、事象の連なりのなかにいきなり規則を見出そうとなどもしません。
そうではなく、これこそはと思う単独の事例を1つの範例として認識し分節するだけです。
新しいパラダイムシフトの規則を構成するような言説が導かれるかどうかはあくまで結果であり、それを目的としたらアナロジーは働きません。

一般の人が苦手なのは、このアナロジー的な思考の仕方なんですよね(だから、アナロジー思考に関してはさんざん著書に書きました)。
どうしても演繹的に既存のルールに頼ろうとしてしまったり、帰納的にとにかく最終形に近い普遍性を最初から導きたがります。
でも、その両方がまだ評価の定まらない現実を前にした際の頭の使い方としては不向きなのは言うまでもありません。

未知なる現実を前にした際に有効なのは、とにかく既存の枠組みに頼ったり、そこに規則があるはずだなんて幻想は捨てて、とにかく模範となる言表あるいは行動を示すことだけです。
それが認められればパラダイムシフトは起こるし、認められなくても何も起こらないだけでしょう。
リスクはあんまりないはずなのに、どうしてかみんな、そういう立ち振る舞いが苦手なんですよね。

そして、それが無難なことだとでも勘違いしているのか、新しい事象を古い枠組みのなかで読みたがる。昨日の「ソーシャルメディアマーケティングなんてないでしょ?」もその一例ですよね。

でも、それが無難なんてことがありえるわけがありません。だって、現実を見誤っているわけですから。
単に問題を見て見ぬふりして後回しにしてるだけです。

後回しにしたからって問題がなくなるわけじゃないのにね。やれやれ。



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タグ:パラダイム
posted by HIROKI tanahashi at 19:42| 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする