2011年04月27日

ソーシャル時代のワークスタイルを支える「討議」のスキル

ソーシャル時代、つながった世界でのワークスタイルとして、マス・コラボレーションやコ・ワーキングのような新しいワークスタイルが注目されるようになってきています。

従来のように1つの企業に所属して、組織の決めた仕事を同じ組織の同僚とともに従事したり、はたまた複数の組織が契約のもとにジョイントして事業を展開するやり方とは異なり、新しいワークスタイルはそれぞれは小さな力ながら、個々人がP2Pのピアとなって自らが「できること」を他人と共有しながら1つの大きな仕事を成し遂げるスタイルが、「「所有」から「利用」へ」などで紹介したプロダクト=サービスのシェアのビジネスモデルの普及とともに増えてくることが予想できます。
つまり、商品やサービスがシェアできる仕組みがあるのなら、仕事やそれに従事する人材、その人材のスキルの一部も、必要なときにいつでもシェアできるような仕組みが可能になるのではないかということです。

もちろん、こうした動きはすでにウィキペディアやIT分野のオープンソースコミュニティでは現実になっていますので、そうした領域に携わる人にとっては何をいまさらということなのかもしれません。それはZipcarSolarCityなどに代表されるようなリアルな財のシェアモデルへの注目が、すでに市場で当たり前のように認知され利用されているクラウドサービスの側から見たらいまさら感を感じるのとおなじでしょう。
ただし、クルマやソーラーパネルのようなリアルな財の共有や、IT分野に従事しない人びとがリアルなものを生み出すのに共同作業を行うのは、デジタルな情報のみを扱うコラボレーションやクラウドサービスよりも1つハードルが高かったのも事実でしょう。そのハードルを超える解決策がようやく出始めてきているのが現段階ということではないでしょうか?

そうした変化のなか、今日は新しいつながった世界でのP2Pの共同作業的ワークスタイルにおける「討議」のスキルの必要性について、すこし考えてみようと思います。

リアルに働きかけるマス・コラボレーション

さて、では、なぜ「討議」なのか?

1つには、私自身がこのDESIGN IT! w/LOVEのFacebookページを運営しているなかで、もしかしたらいまの日本人には、他者と議論を重ねることで、自身の考えを発展させていくようなことに不慣れな人が相当多いのではないかと感じることがあったからです。
もちろん、370人程度の「いいね!」しか集めていないFacebookページ上での出来事だけで、日本人全体を類推することはできませんが、そこに普段の仕事やさまざまなところで講師として参加させていただいているワークショップやセミナーなどの体験を踏まえても、そんな気がするのは確かです。

ですので、ここは「そんな気がする」程度であることを前提に話を進めますと、もし仮に、日本人が自分と異なった世界に生きる人、自分と専門領域の違う人などと互いに意見を交わして、ひとつのテーマについて議論を重ねることが苦手だとすると、いま起こりつつあるコラボレーション的なワークスタイルでは非常に不利になるのではないかと感じます。

もう1つには、異なる専門領域や異なる文化のなかで生きる人びとのあいだでのコラボレーションには、議論が欠かせないし、また議論をすることが有効だと思うからです。代表的なマス・コラボレーションの事例といえるウィキペディアのように、必ずしも議論をともなわないものも当然あるとは思いますが、共同作業による利点は単に足りないものをお互いに補うあうことばかりではなく、異質なもの同士の接触から新たなものが生まれてくるということも含まれ、それには接触の具体的なアクションとしての議論・討議は必要だと感じます。

以前に、「未来を切り開くスキルとしての他家受粉」というエントリーでも紹介しましたが、IDEOのトム・ケリーはこんな風に言っています。

他家受粉を起こさせる花粉の運び手には、とくに関連もなさそうな複数のアイデアやコンセプトを並列させることによって、新たに優れたものを生み出す能力がある。ある状況やある業界に賢明なソリューションがあるのを発見して、別の状況や業界に置き換えてみると、それがしばしば画期的なイノベーションとなることもある。

これは「花粉の運び手」という一人の領域横断的なスキルをもった人に関しての記述ですが、コラボレーションにおいて求められるのもこうした他家受粉にほかなりません。

オンラインでのマスコラボレーションの事例としては、IDEOによるOPEN IDEOや、

openideo.png

ソーシャルな領域の活動には積極的なLevi'sも参加しているifwerantheworld.com

ifwerantheworld.png

などの例がありますが、こうした場を通じた共同作業においても、異なる意見をもつ同士が互いにその意見を交換しながら議論しあうことで、互いに矛盾しあう点をより大きな視点で統合させた新しい考えを生み出す弁証法的な議論を行なえるようすることが重要ではないかと思います。

議論のスキルはコラボレーションには不可欠

それはこうしたオンラインでのマス・コラボレーションではなく、デザイン思考的なコラボレーションの場としてのブレインストーミングやKJ法などを用いた場でも必要なスキルです。

前回の「「原因→結果」から「関係性→変化」へ」で指摘したような新しいデザインの方向性のなかで、手続きのアルゴリズム化により、人が思考するなかでは起こり得ないような反復を行う関係性をしくみとしてデザインするためには、様々に異なる領域の人びとの共同作業は不可欠になります。

ところが、どうも僕ら日本人はこうした議論に慣れていないせいか、「わかってる人」と「わかっていない人」といったように、僕らは二元論的に白黒つけて考えたがりです。ところが現実には、わかっている人/わかっていない人の間に多数の「もうすこしでわかる人」といったグレーな領域に属する人がいます。そうした現実を忘れて、僕らは頭(ことば)で、それを両極に分けて捉えがちです。
これは「わかる/わからない」だけでなく「正しい/正しくない」でも同じ。簡単に両極に分けられるほど、世界はデジタルにできていません。

にもかかわらず、僕らは自身の価値観に応じて、どちらか自分に合う極を選んでは、その反対の極にしたがう意見をもった人を敵視したりしてしまいます。そうでなければ、今度は他者との意見の間でなんとか妥協点を見出そうとして、いずれの極に立つ人にとっても得るものより失うものの方が多いようなどっちつかずの案に落ち着かせてしまったりします。
教育課程において、弁証法的な討論の仕方を学んできていないから、そのスキルが身に付いていないのだといえば、それまでですが、先にも書いたとおり、デザイン思考的な仕事の仕方をしようと思えば、この他者との議論のなかで新しい発想を生み出すアプローチは不可欠です。また、これからのソーシャルな時代における新しいワークスタイルを考える上でも討議の力は欠かせないはずです。
前回の「「原因→結果」から「関係性→変化」へ」で書いたように、これからは原因から結果へ直線的に連なる線形的な思考にではなく、何らかの変化を起こすための部品としての関係性が提示されるだけで、それを使ってどんな変化を起こすかは、それぞれのコミュニティの具体的な活動に僕らの生活や仕事がどうなるのかが委ねられた時代なのですから。

中世ヨーロッパにおける議論の復活

では、こうした討議のスキルが、西洋においては歴史上、常にあったかというと、僕ら日本人がイメージするのとは現実は異なり、西洋においても、その思考のスタイルは定着したり消えたり、さまざまな状況があったようです。

例えば、いま読んでいるリチャード・E・ルーベンスタインの『中世の覚醒―アリストテレス再発見から知の革命へ』では、古代ギリシアで発展したアリストテレス的弁証法が一度は西欧から消えたあと、12世紀のレコンキスタによるアリストテレスの著作の再発見によって、弁証法の再発見をはじめとする知の革命がカトリック教会が中心となった中世ヨーロッパの社会において起こり、それがルネサンスを準備したという歴史的な動向が詳細に描かれています。

その本のなかで、12世紀の前半のフランスの天才的教師ピエール・アベラールがアウグスティヌス以降、プラトン主義がはびこる中世西ヨーロッパのカトリック世界に、アリストテレス的思考の復活の先鞭をつけた人物として描かれています。

1136年、ピエール・アベラールは彼の学生たちに向かってこう語りはじめたそうです。

「さて、キリストを殺したユダヤ人たちは、その行為によって有罪とみなされるのだろうか」と。

当時、キリストの磔刑にはユダヤ人が一義的に責任を負っていると考えられていました。そう福音書に記述されていたからです。この記述に疑問を呈したものはアベラールを除いて一人もいませんでした。

動揺する学生たちを前に、アベラールは自著でも示した合理的な論証の方法を用いて、この命題について考えてみようと学生たちに促しました。その方法とは、ある命題に対して、賛否いずれの立場もとる様々な意見を集め、分類することで、それぞれの意見の相違が何で、それは根本的な相違なのか単にそう見えるだけなのかを明らかにしたり、対立する見解を調和するにはどうしたらよいかを考えたりできるようにするアリストテレス的な弁証法の方法でした。

アベラールの分析は質問の嵐を巻き起こした。大方の教師が一方的に講義するだけだったのとは異なり、アベラールは常々、学生も積極的に議論に参加すべきだと力説していた。もっとも、彼が返答に窮することはめったになく、しかも彼の回答は常に首尾一貫していた。

ここに、討論・議論を経ることで矛盾を超えて新しい真理に到達する方法としてのアリストテレスの弁証法が古代ギリシア以来、復活します。
アベラールはこの「ユダヤ人の罪」の問題をはじめ、それまで神秘的な問題であるとして、合理的に論理的に議論することが避けられていた問題を議論の対象にすることで、12世紀はじめの中世の人びとの「知りたい」「理解したい」という欲求に応えたのです。

実際、アベラールの学生たちは、師との講義が終わったあとでも、さまざまな場所で級友たちと議論を交わし続けたようです。

学生たちは思想の力のとりこになり、議論の応酬に興奮し、伝統的に受け入れられてきた真理に異議を申し立てる論理的な推論に魅惑され、その一方で若干の恐れを抱いていた。彼らは自分たちが新しい何か、重要な何か、もしかすると危険な何かの只中にいることを、肌で感じとっていたのだ。

議論・討議という方法を知らなかった中世の学生たちにとって、その新しい知的方法によって開かれた知の領域は興奮の対象であると同時に、恐れの対象でもあったのです。
それは新しく、かつ重要で、さらに危険な変化の前触れでした。
実際、このアベラールの時代をさらに下ると、アリストテレスの思想から生まれた新しい神学に対して、カトリック教会からは何度も異端の判決が出されます。しかし、一方では、このアリストテレスの思考はのちのトマス・アクィナスのようなスコラ学の大成者も生むことになります。

新しい時代の変化を押し進めるなかで、アリストテレス的な議論・討議を基礎とする思考のあり方はひとつの核をなした思考スタイル/ワークスタイルでした。

ソーシャル時代のワークスタイルを支える「討議」のスキルを身につける

こうしたヨーロッパ中世の歴史をみても、議論・討議のスキルといったものは必ずしも西洋人にとっては当然身についているスキルで、一方の日本人は身につけるのがむずかしいものだと考えることはできないと思います。
日本人であろうと、きちんとその必要性を感じて、そのスキルの習得に具体的な努力を行なえば、アベラールの学生が感じたような知的興奮を議論のなかから感じとることができると思います。そう感じるのは、僕自身がデザイン思考のワークショップで、参加者たちのそうした知的興奮を身をもって感じた経験にもよります。

残る問題は、具体的にどうやって、その討議・議論のスキルを各自が身につけるかということでしょう。
それは拙著『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』でも扱ったことなので、ここでは詳しくは書きません。
ただ、「普段から他者の意見に耳を傾けること」「自分が気になったこと、疑問に思ったことはいい加減に片付けずに、納得のいく説明を自分自身で考えること」などの訓練は日常的に行なうことをおすすめします。

あとは僕のFacebookページに来ていただいて、僕の投稿にコメントしてみてください。他者としての僕の投稿を読んだうえで、もともと自分がもっていた考えとを重ね合わせ、テーゼ(自分の意見)→アンチテーゼ(僕の意見)→ジンテーゼ(僕の意見を統合した新しい自分の意見)と展開するようなことを練習用のワークとしてみてはいかがでしょうか?w

単純にそうしたソーシャルメディア上でのコメントのやりとりは、これから「ピア・ツー・ピアがデフォルトに」なる世界を生き抜くための糧にもなるかと思います。
とにかく「議論が苦手な日本人」といった紋切り型のイメージから身を離す努力は、それぞれが自分自身で努力していく必要はあるだろうなと思っています。

 

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posted by HIROKI tanahashi at 21:18| 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする