(基礎)情報(社会)学における「共」の視点

西垣通氏と公文俊平氏はともに現在そして未来の情報社会の考察を行っている点では日本を代表する論客の2人だといってもよいでしょう。
それぞれ西垣氏は基礎情報学、公文氏は情報社会学という異なる立場から見た異なる視点で、それぞれ現在の情報社会をともに歴史的な視点も考慮しつつ考察していて、そこで語られる内容はそれぞれ違うものを論じているがともに興味深いものだと思っている。

そんなそれぞれ異なる視点をもつ2人の論考ですが、以下に示すような「共」という視点には共通点があるといえます。

いろんな生物の解釈するいろんな世界の重なりとして情報のネットワークがあり、互いに食物を提供しあいながら進化していく生態系がある。そういう全体が生命流です。われわれもその一部として生きているわけです。
とすれば、われわれ一人一人は、いわゆる個人(インディビジュアル)とは少し違う存在ではないでしょうか。インディビジュアルというのは分割(ディバイド)できない存在ということですが、これはユダヤ=キリスト教的な考えだと思うのです。
そうではなくて、われわれは60兆個の細胞の共生体なのです。

私が提唱したいのは、第一の見方(註:共の原理は必ずしも新しくないというもの)に共感を寄せつつも、近代化過程の中でも、実は共の原理に立脚するアクティビズムは繰り返し再生産されていて、とりわけ「ラストモダン」の局面にいたると、「全体と個への分化を補完する人間のあり方が近代化過程それ自体の中で全面的に確立する」点をより重視するという見方である。そこまできて初めて、近代社会は人間的な社会になり、人間中心主義的な文明としての有終の美をなすことができ、人間中心主義を脱却したポストモダンの新文明への以降の踏み石となりうるのではないだろうか。
両者に共通しているの「共」への言及だけでなく、ユダヤ=キリスト教的なものや、人間中心主義的なものと対立するものとしての、60兆個の細胞の共生体としての人間的なものの獲得には、全体でも個でもない第3の選択としての「共」が必要とされるという認識なのでしょう。

ニーズとのマッチングと専門性

「共」という視点で私が必ず思い出すのは、『「みんなの意見」は案外正しい』の中での「個人の回答には情報と間違いという2つの要素がある。算数のようなもので、間違いを引き算したら情報が残るというわけだ」という一言だったりします。
それは同著で著者のジェームズ・スロウィッキーが書いているとおり、専門家であっても同じことなのだと思います。専門家が間違えるのは、彼らが回答を求められるのが必ずしも彼らの専門領域におさまることばかりではないからです。
なので、それは専門性の否定ではなく、ニーズとのマッチングという意味では専門性が案外ピタっとはまらない場合が多いというむずかしさだったりします。

ニーズとのマッチングといえば何より検索エンジンですが、検索精度が高いといわれるGoogleだって、検索した際に見つかるコンテンツのほとんどはニーズにマッチしないものなのですが、それでもいくつかニーズを満たすものが見つかるからよいのであって、そこでいらないものの引き算はされているわけです。
つまり、検索エンジンにははじめから完璧な答えを返すことなど求められておらず、中に正しい答えがいくつかあればそれでいいのです。

検索エンジンに対してはそんな風に好意的なわれわれも、こと人間に対するときにはやたらと相手の間違いにうるさかったりします。ひどいときにはそれがもめごとにつながったりします。
すべてに正しさを求めるからおかしくなるのです。専門家のいうことを過度に信じ、その一方で素人の意見をあまりに軽く扱いすぎるから大事なことを見失ったりするのだと思います。個に期待しすぎるのも、個を軽視しすぎるのも、ともに正解から遠ざかる可能性を大きく秘めているわけです。

ブロゴスフィアで起こるもめごと

ブロゴスフィアでは時折個人ブロガー同士のもめごとが起こります。その理由はいくつかあるのでしょうけど、理由の1つに個と個の意見の対立というものが大きく影響する場合もあるでしょう。あと、もめごとにはならなくても、ブログを書いている人なら一度は自分が書いたエントリーに自分がまったく意図していなかったような批判を受けたおぼえがあるのではないでしょうか?
意見が違うのは、大脳新皮質のパターン認識という知能に関する機能を考えれば当たり前のことです。繰り返し新皮質に刺激を与えるパターンのシークエンスによって、個々に異なる知能を獲得していく人間の脳同士が、異なる環境、異なる状況で生きてきた脳とは異なる認識を行い、相互に異なる見解をもつことは当たり前すぎることです。
しかし、個と個のあいだで、答えは必ずどちらかひとつだというような誤解があると、それがもめごとに発展する可能性は大いにあります。

そこには間違いの引き算により正しい情報だけを残すという集合知的発想は皆無で、逆に正しい情報を引き算して互いに間違いだけに注目したりします。集合知という観点からみればこれほど馬鹿げたことはないでしょう。
引き算としてのツッコミには付加価値があっても、単なる他人のあら捜しであれば間抜けもいいところです。

「共」という主体と情報社会

「共」という主体が情報社会において価値をもつのは、まさに大量の情報や知識を社会的に価値あるものに変換する作業が、私益に偏りすぎる個(それは私企業を含む)や、力に偏りすぎる全体(それは国家を含む)より、向いている主体だからなのでしょう。
ジェームズ・スロウィッキーがあげる賢い集団の4つの要件、多様性、独立性、分散性、集約性は、同時に「共」の集団であるコミュニティにとっても、その主体が価値を維持するために必要不可欠な要素なのだと思います。

先に検索エンジンのことを書きましたが、いまなら検索エンジンで必要な情報を探すより、はてなブックマークで探したほうが欲しい情報をみつけらるような気がします。
しかし、それは同じはてなブックマークでも「人気エントリー」や「注目エントリー」ではなく、「お気に入り」ユーザーのブックマークリストからだったりします。
きっと、それは「人気エントリー」や「注目エントリー」が、集約性という点では申し分なくても、あまりに「見える化」されすぎてしまっているために多様性、独立性、分散性をいくらか欠いてしまっているからで、その点、「お気に入り」のほうが多様性、独立性、分散性をある程度たもったまま、集約性を付加してくれる形態となっているのでしょう。

情報技術より情報社会

もう1つ西垣氏と公文氏の両者に共通する視点をあげるとすれば、両者ともIT社会ではなく、情報社会を視野にいれて考察を行っている点でしょう。
この点は、広い意味でIT業界に身をおく者としては、忘れてはならない大事な視点だと思っています。

確かにITは必要ですが、なぜそれが必要かを見誤ってはいけないのではないかと最近すごく思います。
それが単にビジネスのためだけだとしたらどうなんだろう?
それを飯の種にしている者としても、単にそれが自分の利益のためだけなんだとしたら悲しいなと思ったりします。

個が争い、全体が暴力的な力をふるうためだけに情報が利用されるなら、いくら技術を向上させてもむくわれない気がします。
そのためにはきっと、西垣氏や公文氏のいう「共」の視点に立脚したライフスタイル、コミュニケーションを情報社会に確立できるよう、努力することが必要なのだろうなと思うのです。

  


この記事へのコメント

  • SW

    サービス化が進めば進むほど技術そのものじゃないフレームが必要だと思うわけです。意識する対象レイヤーが一個上がりますので。
    2006年06月21日 07:38
  • gitanez

    なるほど。
    あちこちで「Webを体験せよ」と吹聴している身としては逆説的ですが、体験の中にいるとそのこと(フレームの必要性)が見えなくなりやすいのかなと思っています。
    このへん、歴史的な視点か、進化論的視点で整理できればなぁと目論んでいるところです。
    2006年06月21日 22:08

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