情報学的転回―IT社会のゆくえ/西垣通

西垣通さんの『情報学的転回―IT社会のゆくえ』をAmazonで買ったのは、実はもう1ヶ月も前のことです。
届いてすぐに読み始めたのですが、最初の30ページくらい読んで、イメージしてたのとは違うなと感じ、そこで読み進めるのをやめてました。

それが昨日、ふいに続きが読みたくなって一気に読了。
先週の伊勢神宮、昨日の熱田神宮への参拝で芽生えた問題意識と、この本で扱われている問題が交差しているような気がして、再び、手にとってみたのですが、その予想は当たっていたので一気に読み終えてしまったわけです。

ユダヤ=キリスト教的思想とインドの古代哲学の思想

私の問題意識の一部は「インタラクション・デザイン:行動とフレーム」や「偶然とは何か/イーヴァル・エクランド」で、すでに書いている部分もあります。

一方のこの本の問題意識はどんなものかというと、例えば、こんな記述に表現されています。

人工知能をつくる、人間のようなコンピュータをつくるという発想そのものが、いかにもユダヤ=キリスト教的ではないでしょうか。
そこには人間を「外側」から眺めているまなざしがあります。人間だけでなく、あらゆる動植物をふくむ万物を神の目で、俯瞰的に、いわば客観的に外側から眺めている。(中略)ユダヤ=キリスト教の発想からみていったい生物とは何かというと、神にとってある「役割」をおぼたものとなるでしょう。西欧流の近代的志向というのはその延長として出てきたのです。
西垣通『情報学的転回―IT社会のゆくえ』
そうしたユダヤ=キリスト教的な考え方と対置されるのが、インドの古代哲学の系統です。
この系統にはヴェーダーンタ哲学を出発点として、ヒンドゥー教、仏教が生まれています。

一方、ヴェーダーンタ哲学や仏教では、生物は創造されたというより、むしろ汎宇宙的な原理のもとで「生まれた(自生した)」と考えられていると思います。前者が生物を外側から認識しているとすれば、後者は生物を内側から認識していると言ってもよいのではないか。
西垣通『情報学的転回―IT社会のゆくえ』


現在の進化論的生物学の視点からみると、このヴェーダーンタ哲学の流れを汲む生物誕生の認識のほうが正しいことがわかっています。
神がほかの生物とともに人間を創造したと考えるユダヤ=キリスト教的流れに従えば、人間をロボット(機会)と同一視し、人工知能という発想が生まれてくるのは必然的であることを著者は指摘しています。



情報学では、情報をどう定義しているか

とはいえ、著者は、ユダヤ=キリスト教的なものを単純に批判しているわけではありません。むしろ、批判の対象となっているのは、基盤となる思想を欠いた私たち日本の側です。
アメリカでさえ、根底にしっかりとしたキリスト教文化(プロテスタンティズム)が根付いているのに、日本は表面的に(ビジネスや技術の面で)アメリカの後追いをするだけで、その背後にあるキリスト教的な思想を見ようとしない。そういっているわけです。
ここは何が思考のフレームワークを規定し、個々人が何をどう考えるのかという基盤がどういうものかをいうことに関係してくるので、実はとても大事なんだけど、日本ではそれが現状欠けてしまっているということにもなると思います(このあたりが「インタラクション・デザイン:行動とフレーム」と問題意識が重なる部分だったりします)。

そう指摘した上で、ユダヤ=キリスト教的な思想からの必然的な帰結としての現在の情報観やIT文明観に警鐘をならしているのです。

では、この本の中で、情報がどう定義されているかといえば、次のような文がそれにあたるでしょう。
情報とは知識の断片のような実体ではなく、関係概念であり、人間のみならず生物にとっての意味作用なのです。
西垣通『情報学的転回―IT社会のゆくえ』
つまり、情報ははじめから存在するのではなく、生物が世界を認知した瞬間、関係概念として生じるものだということです。
よって、ハエが認知する情報と人間が認知する情報は違い、しかも、西洋的人間中心主義がそう考えるのとは異なり、ハエの情報と人間の情報とどちらが優れているというわけではなく、単に違うというだけのことなのです。

生物情報/社会情報/機械情報

著者は、不確定性原理の発見によって「観察」という行為が無視できなくなった量子力学的世界観により、現在では、物質、エネルギー、情報が根源的概念とされることを紹介した上で、

地上に生物が生まれたのは約40億年前です。地球は50億年ぐらい前に生まれました。ビッグバン理論によれば、天体宇宙は140億年ぐらい前に生まれたとのことです。だから、100億年前には、すでにいろいろな物質があったわけですね。エネルギーもあった。でも、情報はない。
西垣通『情報学的転回―IT社会のゆくえ』
という歴史的事実を示しています。
つまり約40億年前の生物の誕生とともに情報は生まれたわけですが、その情報は、

生命情報というと、DNAの遺伝情報ばかりを思い浮かべる人がいますが、もっと広いのです。生物にとっての餌とか敵、異性、そういうものはすべて生命情報です。生物にとって意味があるもの、価値があるもの、生物に刺激をあたえ行動を促すもの、であるわけです。
西垣通『情報学的転回―IT社会のゆくえ』
というものです。

こうした情報の定義に触れると、アンドリュー・パーカーが『眼の誕生―カンブリア紀大進化の謎を解く』で示した、生物が視覚情報を得る器官としての眼を備えたことによるカンブリア紀の大進化のことを思い出します。
そして、MarkeZineの連載2回目に書かせてもらった現在の地図情報サービスの問題点(平面的な地図があっても立体的な都市では目的地が見つからないことがある)との関連性にも考えが及びます。

著者は、生命情報を情報のはじまりとして、さらに生物間のコミュニケーションのための社会情報、そして社会情報を複製、編集、蓄積、伝達するためのメディア化した機械情報の3つに分類しています。
先の地図情報はいうまでもなく機械情報であり、それが生物に刺激をあたえ行動を促すものである生命情報との不一致で、地図から目的のお店が見つからない(404 Shop Not Found)という状況を往々にして起こりえるでしょう。
この生物情報/社会情報/機械情報という情報学の捉え方により、情報というものを見直すことで、ピーター・モービルの『アンビエント・ファインダビリティ―ウェブ』、検索、そしてコミュニケーションをめぐる旅』的な問題点にも違った見方ができるのではないかと思ったりします。
(間違いなく、こうした問題はいくらWebデザイン系の本を読んだところで解決しないはずです)
さらにこの辺の生物情報としての認知に関しては、『考える脳 考えるコンピュータ』でジェフ・ホーキンスが指摘していた大脳新皮質によるパターンのシーケンスを捉える人間の脳の働きとも関連して考えることができそうです(ちなみにこの本も人工知能を批判したものでした)。

というわけで、これまで考えてきた問題点を整理するうえでもよかったですし、また『情報学的転回』というタイトルどおり、考え方の転機となる本でした。
また、勉強してみたいことがこれで増えました。よかったです。

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