堕落論/坂口安吾

昭和21(1946)年4月、坂口安吾は『堕落論』を書きました。

半年のうちに世相は変った。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。
坂口安吾『堕落論』

昭和天皇が玉音放送をもってポツダム宣言受諾を表明し、日本が降伏したのがその前年の8月15日です。

この本は戦争直後の社会で話題となりました。
先の引用したとおり、「半年のうちに世相は変った」ではじまる、この短いエッセイは、一夜にして価値観を変更させられた日本人の心を打ったのでしょう。

僕は昨夜、この安吾の『堕落論』をふと思い出しました。
この短いエッセイの後半に書かれた、

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。
坂口安吾『堕落論』

ということばを。

もちろん、僕がそれを思い出したのは、いまの僕らもまた「一夜にして価値観を変更させられた日本人」に他ならないからでしょう。

安吾の「堕落」

今朝の「心の足場を作る」で、僕は「大きくゆらいだ社会の心の足場が固まらないまま、バランスを欠いて非常に不安定です。もちろん、僕個人がそうであるように、このバランスを欠いた状態はすぐには治らないと思います。ただ、治癒に向かって、バランスの喪失そのものに向き合わない限り、時が立ったとき、バランスを失ったままの状態で固まってしまうのではないかと恐れています」と書きました。
まさに、この足場のない状態に安吾の「堕落」を思ったのです。

坂口安吾は終戦直後に『堕落論』を発表しましたが、そこでいう「堕落」は戦争そのものの悲惨さや破壊を指していたのではありません。
安吾が「堕落」といったのは、むしろ、そうした悲惨や破壊をもたらした日本全体がひとつになって戦争に向かっていた価値観がきれいさっぱり消え失せたあとに残った、依って立つべき足場のない状態に対してでした。

あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが、充満していた。猛火をくぐって逃げのびてきた人達は、燃えかけている家のそばに群がって寒さの煖をとっており、同じ火に必死に消火につとめている人々から一尺離れているだけで全然別の世界にいるのであった。偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。
だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫のような虚しい幻影にすぎないという気持がする。
坂口安吾『堕落論』

安吾は「堕落」を「驚くべき平凡さ」「平凡な当然さ」と称します。
でも、その「平凡」は僕らが震災前に感じていた「平凡」とは違います。むしろ、僕らが震災前に感じていた「平凡」はまやかしの平凡であって、その贋の平凡、贋の当たり前の化けの皮がはがれたいま、これまでの価値観が通用しなくなり、もはや何が「平凡」かさえわからなくなった、この状態を安吾は「平凡」と呼び、それを驚くべきであると同時に当然であるというのです。

そう。その普通の人間の価値観では決して捉えることのできない、底なしの「平凡さ」こそ、安吾のいう「堕落」というベクトルの先にあるものです。

人間は堕落する

安吾はこの「堕落」に敗戦直後の価値観の空洞期に気付いたのです。自分たちを動かした価値観が一夜にして崩れたあと、そこに残ったのは、それまでの価値観が「幻影にすぎない」という認識でした。

そして、その人為的な価値観がどれほど偉大であろうと、安吾はその表面的な偉大さに騙されることなく、「卑小」で「泡沫の如き」だというのです。

堕落の平凡な跫音、ただ打ちよせる波のようなその当然な跫音に気づくとき、人為の卑小さ、人為によって保ち得た処女の純潔の卑小さなどは泡沫の如き虚しい幻像にすぎないことを見出さずにいられない。
坂口安吾『堕落論』

この人為的でお題目的でシステマティックな幻影に対して、安吾は驚くべき平凡な人間そのものを対置します。
終戦により、それまで人びとを動かしていた、人為的でお題目的でシステマティックな幻影としての価値観が消え去ったあと、安吾がそこに見出したのは「人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する」ということでした。

Don't stop!

僕らもいま、これまでの価値観を覆すような状況を経験し、依って立つ足場を失っています。

ただ、その変化を敏感に感じとっている人もいれば、変わること自体に怯えて感覚を閉ざし変化に鈍感になってしまっている人もいます。また、安吾の経験した終戦と異なり、今回の震災はそもそも日本国内でも経験した人としない人がグラデーション的に分布してしまっているという違いもあります。

でも、その経験の違いは実は根本的な違いではなかったりもします。

安吾はこう書きます。

戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。
坂口安吾『堕落論』

そう。「戦争に負けたから堕ちるのではない」のと同様、震災の被災者だから堕ちるのではないのです。
人間だから、生きているから堕ちる。その恐ろしく平凡な事柄にこの大きなショックのタイミングで気付けるかどうかの違いなのでしょう。

安吾は先の引用のあとにこう続けます。

だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。
(中略)
人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。
坂口安吾『堕落論』

僕らの置かれた状況というのも、おなじではないかと感じています。
僕らもまた堕ちきることなんてできないし、そもそも足場を失った状態でも堕ちることなく、ふわふわと浮いた状態の人もたくさんいます。

でも、それではダメなのではないか、という気がしてなりません。
うまく表現できないのですが(この数日、そのうまい表現を探っているのですが、いまだに見つかりません)、今回の震災で失われたのは、何も人の命や物理的な財産だけでなく、これまで僕らが当たり前だと感じていた価値観、考え方そのものではないかと感じています。
そうであれば、これまで同様の使い古しの価値観によって「上皮だけの愚にもつかない」復興を目指すのではなく、「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければ」本当の復興はあり得ないのではないか、という気がするのです。

そのためにも僕らはいま、安易に身近なものにしがみつくことなく、堕ちなくてはいけないのではないでしょうか?

止まれ?

20110315b.jpg

いや、
Don't stop!

堕ちるところまではとりあえず堕ちてみることが必要だと思います。



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