偶然とは何か/イーヴァル・エクランド

世界は思ったとおり、決定論的であるようです。

決定論的宇宙

いかにして「小さな変化」が「大きな変化」を生み出すか(by マルコム・グラッドウェル)!
いまやアジェンダセッティング(議題設定効果)をもつにいたったブロゴスフィアの影響下では、小さな話題があっという間にそのネットワーク内をかけめぐり、場合によっては、新聞社やテレビ、出版社などの旧来のメディアまで巻き込むような話題を生み出すこともあります。
また、複雑系の科学の分野ではよくいわれるように、小さな蝶のはばたきが1年後の台風を生み出すきっかけにさえなりえます。

ただし・・・、
1年後に重要になる気象条件のなかから今日の大気状態にない情報を抜き出すことなど、きわめて難しいどころかそもそも不可能であり、第一無意味である。それより、時とともに情報が創り出されると考えたほうがいい。どちらの見方をとるかによって、情報は判明するか、あるいは創出される。
イーヴァル・エクランド『偶然とは何か―北欧神話で読む現代数学理論全6章』
決定論的な宇宙観、また、それにもとづく「宇宙は、文字通り、そして比喩的にも、コンピュータにほかならない。原子も、分子も、バクテリアも、ビリヤードの球も、すべて情報を保存し、変換することができる」by ニール・ガーシェンフェルド(『ものづくり革命 パーソナル・ファブリケーションの夜明け』より)といった見方をすれば、情報は決して増えることも減ることもなく、情報は単に「判明する」だけです。

観測すること、特別視すること

一方で、せいぜい有効数字を12桁程度しかもたない現在の測定技術の精度に縛られた私たちの観察力では、すべての状態を把握する(すべての情報を得る)ことができず)、「初期状態のなかに含まれていたものの、測定の限界があるために直接見ることのできなかった情報をしだいに浮かび上がらせる」ことで、情報を「創出する」場合がほとんどです。

もしわたしたちがラテン語を話すなら、「注目に値する」というかわりに《egregius(エグレギウス)》というところだ。それすれば語源からただちに、いわんとしていることがわかってもらえると思う。e-gregiusとは「群れの外にいる」という意味である。ここでは、ある出来事が「注目に値する」というのは、どれも同じような外見をした羊の群れから恣意的に選び出された1頭の羊を特別視するのと同じことになる。
イーヴァル・エクランド『偶然とは何か―北欧神話で読む現代数学理論全6章』
1頭の羊を群れの外に出して特別視する。
そう。それは検索です。はてなブックマークの人気エントリーです。

無数の情報の群れから特別な1頭を選び出すこと、それはすこし前までむずかしいことでした。
なので、僕らはメディアが選んでくれた情報を特別なものとして享受していました。
メディアがアジェンダセッティングしてくれた話題を元に、学校や職場でおしゃべりを繰り広げていました。
昔も今も、情報は「判明する」のではなく「創出」されていますが、すくなくとも、今と昔では、情報を「創出する」ことがそれほど特権的な行為ではなくなったことです。

read/write web.

CGM(Consumer Generated Media)といえばいいか、UGC(User Generated Contents)といえばよいかわかりませんが、いずれにせよ、「私たち2.0」は、かつては特権的な行為といえたであろう情報を発信するために、絵に描いた餅のような権利だけでなく、実際、手ごろに焼いて食えるようなサトウの切り餅的な手段を手に入れています。
「私たち」は誰かが観測した情報を単に受け取るだけでなく、自分たちでも情報を創出する「私たち2.0」となっています。

時のしるしを読むことができなければならない、というのが新約聖書にくり返し出てくるテーマである。この「読む」という行為にはどうしても主観が混じってくる。なぜならそこにはその人なりの、リスクを負った意思決定がからんでいるのだから。「耳のある者は聞きなさい」と聖書にあるが、「聞く気のある者」だけが聞くのである。
イーヴァル・エクランド『偶然とは何か―北欧神話で読む現代数学理論全6章』
「読む」行為には主観が混じります。

read/write web.

読むことは書くこと同様に創造的行為です。
書くことができるようになり、私たちはあらためて読むことそのものも創造的行為であることに気づくことができるようになりました。

そして、現代物理学によれば、測定することそのものが創造的な行為です。
そこには、限られた情報を特別視する「創出」の行為があります。
「聞く気のある者」だけが聞き、読み取った者だけが書くことを「創出」できます。

「聞く気のある者」だけが聞くということから、つぎの重要なテーマが見えてくる。それは信じることが実現をもたらす、というものだ。
イーヴァル・エクランド『偶然とは何か―北欧神話で読む現代数学理論全6章』
予想はたくさんの人が信じると現実になります。景気の予想は多くの人が本当に信じたときに現実のものとなったりします。

はたして、それは偶然なのでしょうか?

偶然は存在しない

起こった事実を知ることと、そうなると予想したことが現実になることの違いは何なのでしょう?

決定論的宇宙観でみると、両者には大した違いはないように思えます。

人間は予測できない未来に不安をおぼえたりします。
不安をおぎなうために、人は過去には神やオカルトに頼ったし、今なら科学や統計的計算に頼ります。
「だが問題に終止符が打たれるのは、隠れた決定論が見つかったときだけだ」。
それが見つからないときには、人は自分が置かれた状況を偶然のせいにしたりします。

偶然とは相対的なものでしかなく、ある出来事が偶然といわれるかどうかは、それが起こった歴史的状況によって変わってくることがわかる。
イーヴァル・エクランド『偶然とは何か―北欧神話で読む現代数学理論全6章』
10年も前なら無名な個人がつくったホームページを見知らぬ誰かが訪れることは偶然でした。
しかし、今なら無名な個人がつくったブログを見知らぬ誰かが訪れることは検索でもソーシャルブックマーク経由でもその他もろもろの手段でも可能です。

偶然というものは存在しない。なぜならこの物語のある部分だけを特別視したり、数ある物語のなかでこの物語だけを特別視したりする理由も、意味もないのだから。アイデンティティーに執着する自意識は、「どうしてわたしだけがこんな目に遭うのか?」と叫ぶ。しかしそんな問いを突き詰めたところで、待っているのは無意味と苦しみだけである。世界の穏やかな無関心のなかでは、偶然は溶けて消えてしまうのだ。
イーヴァル・エクランド『偶然とは何か―北欧神話で読む現代数学理論全6章』


世界は偶然など存在しない決定論的宇宙です。

でも、どんなに世界が決定論的であっても、私たち自身の力ですべての情報を「判明」させることができない以上、私たちは情報をそれぞれの判断で「創出」する自由しか持っていないのでしょう。

イーヴァル・エクランド『偶然とは何か―北欧神話で読む現代数学理論全6章』は、そんなことを考えさせるまさに現代の生きた数学を紹介してくれる、とても興味深い本です。
たんに数学だけでなく、複雑系の理論などの科学において、いま何が問題とされ、それが現代の数学とどういう関わりをもっているかを伝えてくれる本です。数学の話とはいえ、数式などが頻繁にでてくるわけでもないので、「数学」というイメージをそれほど意識することもありません。
このブログで以前に紹介したネットワーク理論だったり、量子力学や情報理論に興味を持っている方には、ぜひおすすめです。

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この記事へのコメント

  • イオ

    エントリー、大変興味深く読ませて頂きました。ご紹介されてる本もこれから読んでみたいと思います!
    2006年07月28日 21:27
  • gitanez

    コメントありがとうございます。
    2006年07月28日 22:14

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