2006年06月05日

脳と創造性「この私」というクオリアへ / 茂木健一郎

昨日は、ジェフ・ホーキンスの『考える脳 考えるコンピュータ』を紹介しましたが、今日はもう1つ脳研究つながりということで、茂木健一郎氏の『脳と創造性 「この私」というクオリアへ』をご紹介。

茂木氏は結構、多作なので、著書もたくさんあるし、最近『ひらめき脳』なんていう新書を出されたりしていますが、昨日の話のつながりとしては、『脳と創造性』を紹介しておくのがよいのかな、と。

自分自身にしゃべる「この私」

さて、昨日は『考える脳 考えるコンピュータ』から「パターン処理装置の脳にとって、身体とそれ以外の世界はまったく変わらない。身体の末端とその先の世界の開始点は連続している。ところが、脳の内部には感覚がないので、新皮質は脳そのもののモデルをつくることができない。そのため、思考が身体から独立していて、心や魂が別個に存在するように感じられてしまう」といった言葉を引用しましたが、脳にとっては、実のところ、自分の身体も他人の身体同様に外部のものでしかない。
ただ、「私」にとっては自分の身体は他人の身体と違い、痛みも心地よさも感じられる大事なセンサーなので、同じ外部のものでも人一倍、大事に扱っているだけなのかもしれません。

いや、あるいは身体をもつ他者がいるからこそ、自分も身体をもつ存在であることを、脳はようやく自覚しているのかもしれません。

他者の存在が、自分自身が何者であるのかを発見する、あるいは新しい何かを創造する上で重要な役割を果たすことは、会話において典型的に現れる。会話においては、自分の中にすでにある情報が、他人に伝わるということだけが起こるのではない。他人の存在に触発されて、自らの中から新しい言葉が生み出される。言葉の生成に伴って、新しい自分さえ生まれる。そのような生の躍動(エラン・ヴィタール)こそが、会話の本質である。
茂木健一郎『脳と創造性』

会話とはいうまでもなく脳にとっては外部の存在である言葉をもって行われます。
茂木氏が言うように、他人に話すことは同時に自分に話すことでもあります。

しかし、他者に向けて脳の外へと外部化される言葉は、脳の中だけにとどまる独り言とは違い、常に予期せぬ返答が返ってきたりします。

ブログに書いた言葉は、個人的に誰にも見えないところで書いた日記と異なり、トラックバックやコメント、はてブコメントなどの形で、自分に対するフィードバックが得られます。

自分の思っていたことが他者の目に晒され、他者の読解によって新たな他の感情を帯びた言葉となって自分の目の前に再度あらわれると、もはやそれは最初の自分の言葉が元になっているとは思えない外部性を秘めて自分に突き刺さってくるように感じることがあります。

そのとき、はじめて他人に話していたつもりが実は単に自分に話していただけなのかもしれなといと感じられたりします。
返ってきた言葉に自分を攻撃するような意図を感じ取れば、そこではじめて脳は自分の身体の危険を察して、ようやく「この私」が他人同様、身体をもつ存在だと思い出し、ぷるぷると身体を震わせるのかもしれません。

「この私」は「ふり」することでしか新しい自分を創造できない

ジェフ・ホーキンスは「創造性とは、簡単にいえば、類推によって予測をたてる能力にすぎない」といいます。

茂木氏はこれを人間のチャンピオンを破ったIBM開発の人工知能のチェスプログラム、ディープブルーと比較しながら、次のように書きます。

人間の場合には、まず直感で指し手がわかった後に、それを論理で裏付ける。ディープ・ブルーの場合は、それとは逆に、まずは論理で全ての可能性を検討して、その後にやっと指すべき手がわかる。つまり、結論と論理の順番が、人間とディープ・ブルーでは逆転しているのである。
茂木健一郎『脳と創造性』

人間のチャンピオンはこれまでの経験の中で蓄積してきた様々なパターンをベースにした直感によりその後を予測します。それに対してコンピュータであるディープ・ブルーは一度もそしてこれからもチェスそのものを理解することなく論理的な計算によって最良の確率をもつ手を導き出します。
茂木氏は「結論と論理の順番が」逆だといっていますが、人間とコンピュータでは経験と結論の順番も逆ではないかと思います。

昨日も書いたようにジェフ・ホーキンスは、「訓練によって創造力を高めることは可能か?」という問いにYESと答えています。
創造性の最高の形式の1つは、自分自身が変わることである。人間は自らの置かれた文脈にあわせた「ふり」をすることで、自らを変身させ、新しいものを創造するのである。
茂木健一郎『脳と創造性』

と茂木氏が書くとき、これも訓練の一種と見做すことができるのではないでしょうか?

コンピュータはプログラムさえインストールすれば、「ふり」ではなく本物の振る舞いをいつでもできるようになりますが、身体という牢に閉じ込められた脳をもつ「この私」はその身体でいろんな「ふり」をすることでしか新しい自分を創造することができないのです。
逆にいえば「ふり」することから創造がはじまるということです。

そして行動経済学へ

そして、それゆえに人間は、宝くじなんて当たりもしないものを買う一方で、こつこつ貯金をしたりなどという非合理なこともするわけです。
いま、他の本といっしょに『行動経済学 経済は「感情」で動いている』も読んでいるのですが、この本での人間の決して合理的ではない(かといって完全に非合理でもない)行動や認識が、ジェフ・ホーキンスのいう脳のパターン認識という知能の理論を傍らにおいて眺めると、すごく人間的(新皮質のある脳をもった人間という生物的)だと思えます。

と、今日はここまでにして、この続きはまた今度。

  
posted by HIROKI tanahashi at 21:43| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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