デザイン思考という思考の方法

最近、「デザイン思考」というものを、「デザイン」ということより「思考」ということの方に着目して、果たして、それはどんな特徴をもつ思考なのか?という風に考え直していたりします。
ついつい「デザイン」の方に目は向きがちなんですが、「デザイン思考」って何より「思考」だと思うんです。「デザイン思考」と名指されるからには、なにかしらの傾向をもった思考なんだと思って、その傾向は何かをあらためて抽出したいなと思っています。

ところで、前々回あたりに書いた「記憶とサイン(あるいは、デザインされた内面のなかで生きるということ)」というエントリーで、マクルーハンのいう印刷がもたらした「記憶力の低下」という題材を扱ったのですが、どうも読んでくださった方の中には、明らかな読み間違いをしている方がいるようでした。
脳科学的に記憶力が下がったって言えるの?とか、中には本当に「頭が悪くなったのか?」という飛躍した読みをした方もいるようでした。

当然ながら、記憶力が低下することがそのまま頭が悪くなることにはつながらないでしょう。それが成り立つためには、頭がいいということを記憶力の良し悪しだけで判断していることになります。
「脳科学的には~」という話もずれていて、印刷によって「記憶力の低下」が起きたと書いているのですから、よく考えればそれは脳の絶対的な力の変化ではなく、単に、記憶に関連する手段が変化し、かつ、基本的には記憶する必要がないという意味で特別な手段を用いなくて済むようになったという変化です。
印刷以前は記録メディアがなかったために、記憶する必要がそれ以降よりあり、そのために記憶術と呼ばれる記憶の方法を用いて記憶力を強化していたのが、記録メディアの登場で記憶の必要が減り、それゆえ記憶術という方法を使わなくて済むようになり、しだいにその方法自体が忘れられたということであって、どこにも脳科学が関るような脳自体の変化は起こっていないのです。

近頃の脳科学の流行をみていると、なんでもかんでも脳の絶対的な力で、人の能力を推し量ろうというような単純すぎる見方があるように思います。少なからぬ人が勘違いしているのかなとも感じるのですが、たとえば、考えてもいい答えがでなかったりアイデアがでなかったりというのも、別に頭が良いとか悪いとかを理由に説明するような事柄では本来ないでしょう、と思うのです。

それは記憶術という記憶の方法を使わなくなったから「記憶力の低下」が起こったのと同じように、単に、答えを導き出したりアイデアを生み出したりするのに便利な発想術と呼べるような方法を使わないから起こっているという部分の方が実は大きくて、仮に「頭の良さ」みたいな量的基準があるのだとしてもそれが発想力に関わる比率はそんなに大したものではないはずです。

もちろん、僕が『デザイン思考の仕事術』に「ひらめきを計画的に生み出す」というサブタイトルをつけたのも、「デザイン思考」という思考の方法が、そうした発想力を強化する方法の1つだと考えたからです。

そんなことが今日のエントリーのテーマです。
では、続けます。

「デザイン思考」の3つの特徴

繰り返しますが、発想ができないというのは、多くの方がそう勘違いしているようには、頭の良い悪いの問題ではなく、発想する方法を知らなかったり、方法が身についてないことが原因である方が多いはずです。

いわゆる「デザイン思考」というのは、そうした発想力を強化する方法のひとつで、まさに思考のスタイルの一種だと僕は思っています。

なので「デザイン思考」というのは、別にエスノグラフィとかプロトタイピングといった特別な手法を用いることを指しているのではありません。それらは「デザイン思考」というある思考スタイルのうちの、さらに特殊な方法でしかなく、それらを方法として選択しなくても「デザイン思考」的に考えることは、いくらでも可能であるというのが本当のところでしょう。

もっと根本的に「デザイン思考」というのはどういう思考のスタイルなのか、それはどんな特徴をもっているかというと、以下のようないくつかの特徴を挙げることができると思っています。

  • 1.集めて、2.並べて分けて、3.組み立てるという3ステップを用いて発想を行う
  • イームズ夫妻の有名な"powers of ten"のようにマクロからミクロまでの自在な視点移動を用いて発想を行う
  • コラボレーションによる他者の思考との相互作用など、メタ的視点の導入をうまく用いながら思考を行う
とりあえず3つ挙げましたが、これがすべての「デザイン思考」の特徴かどうかはいまだ僕自身考えているところですし、実はこの3つはすべて『デザイン思考の仕事術』で述べたことであったりもします。

今回はこの3つの特徴のうち、1つ目に挙げた「集めて、並べて分けて、組み立てる」にフォーカスして話を進めます。

エスノグラフィやプロトタイピングなどの個別の手法にこだわる必要はない

「発想する」という思考作業は、この「集めて、並べて分けて、組み立てる」という3つのステップを通じて意味が生じてくるところを掴み取るということだと言えると思います。もちろん、1回だけ「集めて、並べて分けて、組み立てる」という流れを経れば、必ず発想が生まれるという話ではなく、場合によっては、このステップ自体を反復することが必要な場合もあります。
発想力を高めるために「デザイン思考」という方法を使えるようにするためには、この3ステップを日常的に繰り返せるようにして体験的に身体に染み込ませ、それが当たり前のようにできるようになることが必要なのだと思います。

クラウス・クリッペンドルフは、「デザインとはものに意味を与える」ことだと言っていますが、この「ものに意味を与える」ために必要な思考の方法の根幹にあるのが、「集めて、並べて分けて、組み立てる」という3ステップだと思います。

その意味では、エスノグラフィというのは単に「集める」ための手法のひとつでしかないし、KJ法も「並べて分ける」の手法の一種、プロトタイピングも同様で「組み立てる」手法の選択肢のひとつといった具合で、先にも書いたとおり、エスノグラフィやKJ法、プロトタイピングなどの手法を用いることがデザイン思考なのではなくて、そうした手法を使うことで「集めて、並べて分けて、組み立てる」という3ステップの思考を行うことで、意味を発生させ、発想を導くというのが本当の意味でのデザイン思考という思考法です。。
ようするに「集めて、並べて分けて、組み立てる」という思考方法ができるのであれば、個別の手法にこだわる必要はまったくないというわけです。

この点で「デザイン思考」をすこし誤解してはいませんか?
心当たりのある方はいい機会だと思ってちょっと考え直してみるといいと思います。

視覚化作業を通じて、意味を匂わせ発想を生み出す思考のスタイル

ところで、そもそも「集めて、並べて分けて、組み立てる」という3ステップを用いる思考法を、なぜ「デザイン思考」と呼ぶのか?ということが気になり、すこし考えてみました。

その理由の1つは、この3ステップに図式化のスキルがある程度求められるから必要だからだろうと思います。

わかりやすいのは「並べて分ける」段階です。
ある程度の量の素材(テキスト情報でも、イメージでも)を並べて分けて意味を発生させるためには、まず図式的に素材を整理することが必要になりますし、かつ並べて分けた図の状態が意味を匂わせる程度には、きれいな図を描くことが求められます。
自分で見て、意味も感じられないような図ではとうぜん思考の役には立ちませんし、ここでは図にするという作業自体がすでに思考の一部です。なので美的に「きれいな図」を描く必要までは問わないとしても、意味論的に「きれいな図」を描く力は求められるでしょう。
それは意味のある図を描く力であり、描かれた図から意味を読み解く力です。
いわゆるKJ法というのは、これを1つの手法に落としたこんだものとして理解すると、それがなぜデザイン思考の手法の1つに盛り込まれているかも理解しやすいのではないでしょうか?

さて先に「ある程度の量」といいましたが、この量というのも実は大事です。
図に描くまでもなく頭の中で処理できる程度の量だけを相手にしていたら、出てくる発想もその程度でしかないからです。
頭の中だけで処理できるのをはるかに超えた量の素材を扱うことを可能にするのが、図式化=ヴィジュアル化の力です。図にすることで素材間の関係から意味を匂わせ、その匂いを嗅ぐことで発想を生み出すためには、実際に紙や画面の上などで図を描いてみるという視覚的な思考スタイルが欠かせません。

この視覚的思考スタイルを用いるからこそ、その思考スタイルをデザイン思考と呼ぶのだろうと思っています。

デザイン思考はルネサンス以降に誕生した

さて、ここで話はすこし変わりますが、「集めて、並べて分けて、組み立てる」ためには1つの前提があると思っています。

それは普通の人びとが様々な素材を集めてそれを物理的に並べられるようになるためには、そのための素材がある程度大量に存在している必要があるということです。

この前提は、大量生産の時代に生まれ育った僕らには当たり前のことのように感じられて、何もあらためて前提と考える必要もないように思えますが、実はもっと広い目で見て("powers of ten"ですね)歴史をみると、現在の大量生産社会のように同じものが大量にあることが普通ではなかった、手工業以前の時代においては「集めて、並べる」こと自体、いまのように一般の人々が容易に行えることではなかったことが想像できると思います。
社会的にある程度の人びとが「同じもの」を共有できている前提があってこそ、思考において、様々な「同じもの」を素材として「集めて、並べる」ことで思考を行うことが可能になるはずです。

だからこそ、中世の写本の時代ではなく、ルネサンス以降の印刷の時代になって、はじめてデザイン的な思考も、科学的な思考も可能になったのです。書物の大量生産という技術により、メディア化された知を多くの人びとが共有することが可能になってはじめて、メディア上に物理的に存在する情報(テキストであれ、イメージであれ)を「集めて、並べて分けて、組み立てる」という思考作業が可能になったのです。

印刷本は史上初の大量生産物であったが、それと同時にやはり最初の均質にして反復可能な<商品>でもあった。活字というばらばらなものを組み上げるこの組み立て工程こそが均質で、かつ化学実験が〔他者の手によっても〕再現可能なように再現可能な〔活字を崩しても再びそっくりそのままに組みこむことができる〕製品を可能にしたのである。

それはルネサンス以降の歴史的出来事であることは、以前に「デザインの誕生」というエントリーをシリーズ化して書いていた際にも指摘していたことですが、僕自身、マクルーハンの本を読んで、ようやくそれが何故ルネサンス以降に起きたのかも考えられるようになりました。

デザイン的な思考も、科学的な思考も、印刷という大量生産の実現を背景にしている歴史的な事柄であって、人類があらかじめもっていたという能力ではないということは理解しておくことは、最初に書いた「記憶力の低下」を脳の問題にしたりという勘違いと同じようなことを「発想力」に関してしないようにするためにも必要なことだと思います。
あらためて書きますが、デザイン思考ができるかどうかというのは、大量に生産された物事を集めて、並べて分けるという物理的な素材と頭の動かし方のインタラクティブな思考ツールをちゃんと使いこなせるよう身につけているかであって、ベースとなる脳の力があるかどうかではないのです。

そうしたことも、歴史的に思考スタイルそのものが技術的・社会的な意味でのツールの変化と同時に起こっていることを理解すれば、デザイン思考を含めて思考ができるかどうかが単純な脳的な意味での頭の良し悪しによって左右されるよりも、ツールや方法の使いこなしの方にはるかに大きな影響を受けるということが理解できるはずです。

僕自身、こうした歴史的な変化も踏まえつつ、引き続き「デザイン思考とはどんな傾向をもった思考スタイルなのか?」を考え、それを明らかにすることで、「ではデザイン思考を身に着けるためには何が必要か?」の答えをあらためて導き出せればと思っています。
というわけで、僕のこの思考作業自体が「集めて、並べて分けて、組み立てる」という3ステップで成り立っているというわけです。



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