ところが、先日、ふとしたきまぐれで購入して読み始めたところ、それが僕の思い違いとはまったくの正反対で、「知能」をつかさどる器官としての脳の働きを理解することなしに、コンピュータが人間のように振舞うよう研究を進める「人工知能」研究に対し、脳そのものがいかに「知能」をつかさどっているかを調べることで「真の知能」を理解し、それを行う機械をつくろうという研究の概要を、わかりやすく説明してくれている本でした。
パターン認識
例えば、人工知能やロボットの目の研究で用いられる「パターン分類」という処理と、脳の中の新皮質がおこなっている処理との違いをホーキンスはこんな風に紹介してくれています。コンピュータに物体を認識させるとき、研究者はふつう、「テンプレート」と呼ばれるものをつくる。それは、たとえば、カップの画像であったり、典型的なカップの形状を記憶したものであったりする。このテンプレートを元にコンピュータにそれに合致するものを探させ、それに似た物体が見つかれば「カップを見つけた」なり、「これはカップです」なりとコンピュータに答えさせるのが、人工知能における「パターン分類」なのだそうです。ジェフ・ホーキンス『考える脳 考えるコンピュータ』
一方で、ホーキンスは「脳にこのようなテンプレートは存在しないし、新皮質の各領域が入力として受け取るパターンも、画像であることはない」という脳とコンピュータのパターン認識の処理の仕方を示した上で、こんなことを言っています。
人間はある瞬間に網膜に映った像を覚えるのでも、ある瞬間に蝸牛殻や皮膚が受けとったパターンを記憶するのでもない。新皮質の階層構造によって、物体の記憶は単一の場所ではなく、階層全体に分散されて保存される。(中略)脳の中には、カップであれ、ほかのどんな物体であれ、具体的な画像は存在しない。コンピュータが画像や音声を保存するのに、そのものずばりをコード化して記憶するのに対し、脳の中にはそのものずばりの画像も音声も存在しないというのです。ジェフ・ホーキンス『考える脳 考えるコンピュータ』
そして、そのものずばりを記憶するのではなく、パターンを分散して記憶することで、人は何年も会ってなかった知り合いにしばらくぶりにあって、相手が年をとったり髪型や服装が変わったりしていても同一人物であると認識できるのだし、音程が多少異なっていても、絶対音感の持ち主でもない限り、メロディーのパターンが同一であれば同じメロディーだと感じたりするのです。
計算するコンピュータ、予測する脳
「チューリング・テストの間違いは、この点にあった。知能を証明するものは行動ではなく、予測なのだ」ホーキンスはこれまでの人工知能やニューラルネットワークの致命的な問題は、知能を解くための焦点を振る舞いにあててしまっている点にあると指摘しています。「応答」「出力」などの行動、振る舞いに知能があらわれると考えることで、与えられた入力から正しい出力を得ることを知能の本質としてしまっている点が問題だとしています。
一方でホーキンスが知能の本質を解く鍵として焦点をあてているのが、先の引用にもあるとおり「予測」です。
予測は脳の単なる1つの働きではない。それは新皮質の「もっとも主要な機能」であり、知能の基盤なのだ。(中略)知能とは何か、創造性とは何か、脳はどのように働いているのか、知能を備えた機械はどうすればつくれるのかを知りたいなら、予測の本質をあきらかにし、それがどのようにたてられているかを解明しなければならない。ダニエル・C・デネットの『自由は進化する』の訳者あとがきで、山形浩生は本に書かれていることの要約として「自由とはシミュレーションのツールである」と書いていますが、まさにホーキンスのいう予測はこのシミュレーションを無意識のうちに行うもので、認識される自由のためのツールとしてのシミュレーションは予測という知能の機能をさらに拡張したものだと言えるのかもしれません。ジェフ・ホーキンス『考える脳 考えるコンピュータ』
その意味で以下のようなダニエル・C・デネットの記述は、ホーキンスの主張に非常にリンクしています。
人は次に何をするか決める鳥の(そしてサルやイルカの)能力の上にもう1つ層を追加した。それは脳の解剖学的な層ではなく機能的な層で、脳の解剖学的構造の細かい細部によって、何らかの形で構成された仮想の層だ。人はお互いに何かしてくれと頼めるし、自分自身に何かしてくれと頼める。そして少なくとも時々は、そうした要求に素直に応じる。(中略)人は頼まれて何かができるだけじゃない。何をしているのか、なぜしているのかという問い合わせにも答えられる。理由を尋ね、答えるという行為に従事できるのだ。ただし、デネットが「仮想の層」と呼んでいるものは、実は現実に脳を薄く覆った新皮質だということが、ホーキンスによる研究によって明らかになっているのだといえるのでしょう。ダニエル・C・デネット『自由は進化する』
理解の本質としての予測
脳という知能をつかさどる器官が、コンピュータのようにそのものズバリ(つまり「出力」や「応答」)を前提とした計算を行っているのと違い、シーケンス化されたパターンの記憶により予測を行っているのだとすると、なぜ人の知識には形式知だけでなく、暗黙知があるのかということも理解しやすくなります。僕が前からその存在を信じつつも、なぜそれが可能かをうまく説明できずにいた、優秀なWebディレクターが危険なプロジェクトや、問題のあるお客さんを察知する能力も、このパターン認識という知能の働きを考えると非常に理解しやすい。
つまり、優秀なWebディレクターは自分で形式知的に他人に説明できるようには認識していなくても、目の前にあるプロジェクトがかつて失敗したプロジェクトと何かしら類似したパターンがあることを見つけ、そのパターンの類似に危険を察知するのではないかと思うのです。
予測できることが、理解の本質だ。何かを知っているということは、それについての予測がたてられることを意味している。と、ホーキンスがいうとき、その理解はプロジェクトの危険を察知するWebディレクターのパターン認識のような暗黙知的なものも含むより広義な理解なのでしょう。ジェフ・ホーキンス『考える脳 考えるコンピュータ』
もちろん、そうした暗黙知をコンピュータが扱えないのはいうまでもありません。
情報社会の今後の課題
前に「アンビエントに存在する情報たち」で、現在の地図情報が地下街や2階以上の建物のような階層化された都市における位置情報をうまく扱えないというHII的問題を取り上げましたが、その意味では私たち自身がまだ、こうした暗黙知的な知能についての理解が不足しているのでしょう。私たちはコンピュータという計算や論理処理を行う機械を最大限効果的に扱うことを優先してきたばかり、コンピュータに処理可能な形式知だけが情報であるかのような狭い考えをいつの間にか持ってしまっていたのかもしれないなと思います。
ジェフ・ホーキンスの『考える脳 考えるコンピュータ』を読んでいると、それが人間という動物のもつ情報処理能力のほんの一部でしかないことにあらためて気づかされます。
今後の情報社会ではまさにこうした点が課題になってくるのでしょう。
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