Web2.0を懐疑する視点が意味するもの
先に引用した箇所の続きにこんなやりとりがありました。編集部1つ前のやりとりが共感をひくものだとすると、こちらの発言はちょっと「はてな?」です。
Wikipediaなんかそれの最たるものですよね。
武田
そう、でも、最も見たい項目、みんなが物申したい項目なんかは、議論が巻き起こっちゃって結局「編集中」ってなっちゃうじゃないですか。それくらい、ウェブに載せるデータっていうのはナイーブなものなんですね。実は。ホイホイ載せていいものではないんです。
オンラインマーケティングのMarkeZine:第1回 現場プログラマが見る、Web2.0:Page 3より
Webに情報を掲載することが非常にナイーブになってきていることは理解します。
Wikipediaの例もそれが問題であることはわかります。
しかし、そこで導かれる結論が「ホイホイ載せていいものではないんです」となると、ちょっと待った!と思うんです。
まぁ、会話の中での発言なので、「ホイホイ載せて」というのは「何も考えずに載せて」という意味で、それが「いけない」ということを言ってるのであれば問題はないと思います。
しかし、ここで一瞬、読み違いをしてしまいそうな「Webでの情報掲載はナイーブなのでなるべく掲載は控えたほうがいい」といった意味と考えてしまうと、それは違うのではと思います。
同じページに、
Peer to Peerの考えかたって、実はすごいWeb2.0的。横のつながりを作るっていう意味で。で、amazonのなかみ検索然り、 GooglePublisher然り、超Web2.0なわけでしょう。でも実は、凄い危ういと思うんですよ。そうやってどんどん横に広がっていくことで、自分の会社の利益が、どこが出所かわからないデータによって、知らないところで圧迫される可能性が出てくる。オンラインマーケティングのMarkeZine:第1回 現場プログラマが見る、Web2.0:Page 3よりという発言もあるのですが、これも僕としてはそう断言してしまうのはどうかと思ったりするところです。
というのも、これはWeb2.0がもたらそうとしている社会的変化を、前時代から一方的に見るものであって、変化後の社会をいかにつくりだしていくかという視点を欠いたものであるように映るからです。
新しい技術は、新しい法、新しい組織、新しい暮らしを生み出す
これまでの歴史でも、新しい技術は、社会に新しい変化を生み出してきたのではないかと思います。例えば、自動車技術は、道路交通法などの整備、自動車メーカーを中心とした自動車産業とそれを牽引する企業体を生み出し、さらにドライブや車での買い物などの新しい生活スタイルを可能にし、いわゆる車社会を生み出しました。
インターネット技術も同様に、プライバシーマークや個人情報保護法などを生み、インターネットプロバイダーなどのインターネット関連企業を生み出し、さらにメールやWebがなければ仕事がままならないようなワークスタイルなど暮らしの変化をもたらしました。
そうした新しい技術の登場が、既存のビジネスに打撃を与えたのも歴史が語るとおりですし、それまでまかりとおっていた常識(common sense)が通じなくなるなどの変化もあったはずです。
その意味で、いま起きているWeb2.0的技術の浸透による変化だけをことさら懐疑的に見るのはおかしくて、変化が起こるなら、その変化がもたらす環境に適応できるようにするためには、どんな法規制が、どんな組織が、どんな生活スタイルや常識が必要になってくるかを考えたほうが生産的ではないかと思うのです。
市場から智場へ、市民から智民へ
そんな視点に立てば「情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる」での公文俊平の「近代文明=モダンの3局面としての国家化、産業化、情報化」という歴史観が非常に有効な思考のフレームワークとして役立つような気がします。産業化段階が「市場」をゲームの場として「市民」そして「企業」という主体が、財の交換を行い、富を蓄積し誇示するゲームであったとすれば、情報化段階は、公文氏が言うように、「智場」をゲームの場として「智民」そして「智業を行う組織体」という主体が、「通識を智場に出して智民たちの積極的な評価を受けて-つまり「信望者」としての智民に対してそれを受け入れさせることに成功して-評判を高め、智、すなわち抽象的で一般的な説得・誘導力を獲得」するゲームです。
産業社会においては、市場においてマーケティングを武器(あるいは戦略)として、私企業あるいは市民が自分自身の財の獲得~富の蓄積を目指してきたわけで、当然、ゲームの得点は「私有財産」としてカウントされたわけですし、富を得る手段としても「私有物」として商品を別の私有物である金銭と交換するという形が主流でした。
ゲームのルールが上記の形であるときには「自分の会社の利益が、どこが出所かわからないデータによって、知らないところで圧迫される可能性が出てくる」というのは正しい。
ただし、ゲームのルールが変われば必ずしもそうではないことは、オープンソース系の開発で、誰かが作ったシステムの上に、他の誰かが改良を加えることで、コミュニティ全体の利益が生まれるような場合がある、共の論理がはたらく「場」の存在を想像すればわかります。
共の原理
両者のゲームの違いを、公文氏は「私の原理」と「共の原理」という形でも対比してみせます。私の原理の根本は、自分自身の行為を遂行し律する能力と権利にある。なかんずく、「私有財産」の所有/使用者としての「私人」が、自分自身の判断で、それを手段として利用して、自分の設定した目標を実現するための行為に従事する能力と権利にある。一方で、「共の原理」については、公文俊平『情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる』
その基本は、「説得・誘導」型の相互制御行為にある。すなわち(多少とも)自立分散的な個別主体が、相互の説得や誘導を通じてつながりあった群がりを作り、実現したい目標やそのために必要とされる手段を通有して仲間とその行動を同調させ、あるいはさらに進んだ共働行為を行い、その成果をも享受する、つまり成果も通有するのである。としています。公文俊平『情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる』
ここで思い出されるのは、きわめてWeb2.0的ともいえる本「「みんなの意見」は案外正しい」です。
著者のジェームズ・スロウィッキーがいうように、「多様性、独立性、分散性、集約性」という「4つの要件を満たした集団は、正確な判断が下しやす」く、多様で、自立した個人から構成される、ある程度の規模の集団による予測や推測は、そのそれぞれの回答を均すと一人ひとりの個人が回答を出す過程で犯した間違いが相殺され、個人の回答にある情報と間違いという2つの要素において、算数のようなもので、間違いを引き算したら情報が残るという結果が得られます。
これはスロウィッキーも指摘している通り、少数の専門家あるいはオーソリティの発信する情報に対して特別な信頼を有していた、これまでの知識に対する認識とは大きく異なるものです。
新しい社会を見据えて
先のWikipediaの例でいえば、参加する人が「私の原理」によって他の人が書いた情報に対して議論をしかけるような姿勢で望めば、間違いだけでなく、そもそもの情報まで引き算したあげく、負の感情的もつれのようなものを足してしまうという、あまり好ましくない算数の計算が行われてしまうことになるのでしょう。しかしながら、いうまでもなくWikipediaが前提としているのは「共の原理」であって、問題はそのゲームが社会的にもまだ根付いているとはいいがたく、そのゲームを支える、法も、活動の主体となる組織体も、あるいは個々人の常識(Common Sense)もまだまだ未整備だということなのでしょう。
そういったところまで視野にいれると、ただ単純にWeb2.0的なものの是非を説いてみてもはじまらないのでは、というのが最近の僕の関心事です。
個々のWeb2.0的技術は今後も改善、洗練されるや、まったく新しい同様の技術によって取って代わられることはあっても、単純に衰退する方向に進むことはまずないのではないかと思われます。
それよりはますます進歩しているユビキタス・コンピューティング技術とあいまって、いつでもどこでもWeb2.0的な情報利用が行われる状況に向かうのではないでしょうか?
そうなると、その技術利用の是非を問うよりも、それによってもたらされる変化に対して、いかに法制度を整備していくのか、既存のビジネスをどう再構成していくのか、あるいは情報社会における智場を支える主体組織をいかに構築するか、そして私たち個人はいかに新しい情報社会において快適な暮らしができるよう、生活スタイルの変更を行えばよいのかとう方向で、頭を働かせるほうがはるかに有益ではないかと思っています。
もちろん、こうしたことは一気には進みません。
どこかで最近、技術の進歩より人々の変化の速度ははるかに遅いという内容のことを読んだ気がします。
ですので、決して焦ることはないと思います。
しかし、必要以上に変化を迫る技術の進歩に懐疑的な視点をおくるのはどうかと思うのです。
むしろ、それよりもきちんと個々人がまわりの情報にまどわされすぎずに、しっかりと事実をとらえるよう努力することが肝心なのでしょう。
この記事へのコメント
オオヤコノハ
このたびは記事へのトラバありがとうございました。
読ませていただいて、良い部分と悪い部分があるとのことなので、そのあたりを少し書かせていただきます。
ホイホイ載せて、っていうのは悪い表現というか言葉足らずというか。
これはまったく御指摘の通り、素直にごめんなさい。
そのデータがどういうデータで、どういう反響をもたらすのか。そういったことをしっかり考えてから載せろ、という意味合いのものです。
で、次のツッコミ。これも御指摘通りです。
ただ、例のプログラマーさんみたいに、いまだ旧態依然としてる人はこうやって思ってしまうっていうのはあるようです。
やはり、誰もそのデータに責任を持てない。「案外正しい」ってレベルのデータを正として扱うってのはどうもまだ懐疑するに値すると思っていたようです。
ただやはり、プログラマーさんの視点としては、情報操作とか、プロパガンダに利用されたりというのは怖いことのようです。
でもこれって新聞とか雑誌、テレビ、ラジオ。全てのマスメディアにも言えることで、今に始まった話じゃないですよね。
結局、思うところは人それぞれで、そもそも例のプログラマーさんと棚橋では立場が違うですからね。
逆の立場だったらその方ももWeb2.0バンザイだったかもしれないと思います。
長々と失礼いたしました。
今後ともMarkeZine、よろしくお願いします。
gitanez
> 結局、思うところは人それぞれで、そもそも例のプログラマーさんと棚橋では立場が違うですからね。
> 逆の立場だったらその方ももWeb2.0バンザイだったかもしれないと思います。
おっしゃるとおりです。
そもそも立場が違う人がもともと暮らしているのがこの世界なんでしょうけど、
それがこんな形で簡単に可視化されてしまうのがWeb2.0の世界なんだろうなと思います。
で、この多様性を受け入れるにはどうしたらよいのか、っていうところを
クリアする課題の解決の先に「案外正しい」という多様性を含んだままの正しさが
正しい答えがたった1つあるようにみえる今の正しさに、
本当の意味でとってかわるのかなと思います。