科学的思考/オカルト的思考


思考の仕方には、科学的な方法(分析的で反省的な思考)とオカルト的な方法(盲信的で慣習的な思考)の2つがあるように思います。

ただ、ややこしいのは、思考の対象=内容にも科学的なものとオカルト的なものがあるということです。

それゆえ、「思考の仕方=方法」と、「思考の対象=内容」の組み合わせで以下の4つができます。

  • 1.科学的な対象を科学的な方法で語る
  • 2.オカルト的な対象をオカルト的な方法で語る
  • 3.科学的な対象をオカルト的な方法で語る
  • 4.オカルト的な対象を科学的な方法で語る

このなかで厄介だなと思うのは、3.のパターンです。

他のパターンはいずれも語り手が自分がどんな方法で何を語っているかが自覚できているケースが多いと思うのですが、3.のケースだけはどうもそういう自覚が欠けがちになるのではないかと思うからです。
つまり、3.のパターンで語っているとき、人は語っている内容が科学的であるというだけで語り方や語るための自分の思考自体も科学的であると勘違いしがちだと思うのです。
そう。科学的な方法で語ることとオカルト的な方法で語ることのどっちがよいというのではなく、自身か用いる方法に無自覚であることが問題だと思うのです。

3.のパターンでは、実際は科学的な語彙やテーマを素材に、無反省に民間療法的に自分の単なる思い込みを口にしているだけの場合でも、内容が科学的なものを扱っているだけで方法自体も科学的であるかのように感じてしまうことが多いのではないでしょうか?
繰り返しになりますが、無自覚だったり民間療法的であること自体が問題なのではありません。問題は無自覚かつ民間療法的であるにも関わらず、内容に科学的なものを持ち込むだけで、自分が科学的だったり分析的だったりの方法で考え、語ることができているような気になってしまう、その思い込みです。

方法の時代

実際にはそれほど非科学的なことはなく、そもそも科学的な思考というのは、内容そのものよりも方法を大事にする思考方法ではないかと思いますし、その点で3.のパターンで語っているにも関わらず、自分の語りが科学的だと勘違いしてしまうケースは方法に無自覚であるという点において非科学的だと思います。

近代とそれ以前の思考を分けるひとつの見方として、近代以降の思考を、方法的思考と捉える考え方がありますが、その図式を援用すると、2.が前近代的であるのは当然として、3.も同様に前近代的です。でも、3.のパターンで語る機会が多い人は、本当は近代的思考である4.のパターンを前近代的だと勘違いしたりもします。

自分でも知らず知らずのうちに3.のパターンにはまってしまうことはないとは言えないので、勘違いには気をつけないと、と思います。

ちなみに、常に科学的思考をする人もいないし、常にオカルト的な思考をする人もいないというのは前提。
もっと言えば、完璧に自覚的な思考なんてないわけで、それゆえ、科学的な方法ですら非科学的な土壌のうえに乗って思考するしかないというのも事実。なので、完璧に自覚的かどうかより、自分思考や語りの方法を多少なりとも疑って語っているかというくらいかな。あー、疑うのは内容じゃないですから。当然ながら念のため。

以上、オカルト的にお送りしました。

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