というわけで、このあとのエントリーですこしずつ分解していきたいと思う。
まず、その第1段。
おなじあーるえすえすをみて、おなじてーまのえんとりーをかいている
「人間というボトルネック」でSW's memoの渡辺さんも触れていましたが、確かに最近のRSSの取得状況だとかを見てると、「皆が似たような情報にしかアクセスしない」ような状況が見受けられることがある。例えば、現在、主要なRSSリーダーに数えることのできるであろう下記2つのリーダーのRSS登録状況をみると、上位を占めているものがほんとよく似てる。
こんだけかぶってるとブログで書くネタがかぶるのもある意味、当然かなと思え、実際、はてブの人気エントリーとか注目エントリーをみてると、当たり前のようにいまブロゴスフィアで人気のテーマみたいなものも見つけられる。
そのこと自体、僕はそれが祭りなどといった形でエスカレートしない限りは、よいもわるいもないと思っている。
おんなじネタで会話するのは、別にブログに限ったことではなく、普通に顔をあわせて話す友人、知人のあいだでもそういう会話のほうがきっと多いのだから。
なので、問題はむしろ、それが話に加わってない人にも、かんたんにわかってしまうくらい、そうした現象が可視化されていることのほうだったりするんじゃないかと思う。
おんなじじょうほうをみてはなしてるひとびとのすがたがみえるということ
実は、こんな風にみんながおなじ情報に触れ、おなじような見解に至るのは、別にWebの世界に限られたことでないばかりか、昔からあるメディアである本の著者どうしでもみられることだ。昨日も「情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる 公文俊平」で、最初にちょっと書いたように、僕があの本を読んでびっくりしたのは、ここでもおなじ本が引用され、おなじ話題に触れているんだと思ったからだ。
ここ半年くらいで僕が読んだ本(『スマートモブズ』のみ未読)の相関関係をざっと整理しただけでも、以下のようになる。
もちろん、これは僕がある本で紹介されていた本に興味をもち、次の本を読み始めたという経緯もあるから、当然といえばそうなのかもしれない。
しかし、公文氏の本と『アンビエント・ファインダビリティ』にこんなにも共通の本がとりあげられているのはびっくり。しかも、その本をほとんど僕が読んでいたりするのだから。
(ちなみにこの図を描いたあとに気づいたけど、『アンビエント・ファインダビリティ』でピーター・モービルは、僕がいま読んでいる『考える脳 考えるコンピュータ』にも言及している)
前から著名なブログでの書評が妙にかぶるなというのは感じていたけれど、そこで取り上げられている本同士がたがいに相関関係をもっていたりするのを知ると、ちょっと気持ち悪かったりもする。
でも、それが気持ち悪いなと思うのは、やっぱりそれが瞬時にわかってしまうからだ。
それが可視化されているからだ、と思う。
気づかなきゃ、気持ち悪いとさえ思わないのだから。
かししゃかい
公文氏は、モバイルでユビキタスなセンサー付のコンピュータ群によって、どこでもなんでも見聞きできる可視/可聴社会のことを文字通り「可視社会」と名づけている。この可視社会がそう簡単にはできないよ、すくなくともいろいろ問題を克服しないとダメだよっていうのが『アンビエント・ファインダビリティ』で言われていることだったりするのだけど、それはさておき、とにかく誰が何の本を読み、どんな話題をしているのかは「総表現社会(by mochio umeda)」なこの世の中では、多くのブロガーが自己申告しているので一目瞭然だし、その上、丁寧にはてなブックマークをはじめとする集団知集約システムもあったりするので、集団がどれだけおなじ本を読み(あるいは興味をもち)、ある情報にどれだけの人が興味を抱いているのかもわかるようになってきている。いまのところ、ユビキタス社会もセンサー付コンピュータもまだまだ未発達だから、こんなもんで済んでるのかもしれないが、もうすこしこのあたりの技術が進めば、ピーター・モービルが言うように「自分の本棚の中身をGoogleで検索できるようになるかもしれない。友人がどんな本を持っているのか、それがどこにあるのか、全部分かってしまうかもしれない」のだ。
そして、そこには当然のように「監視」「プライバシー」といったことへの不安がつきまとう。
また、可視化されると、おなじ情報への集中はさらに増すのかもしれない。
人が目が行くところにあるものを手にとる傾向は、昔から、スーパーの店内で売り場の熾烈な陣取り争いがあったり、CDでも本でもランキング上位にはいったものがより売れるようになったりという形であった。
なので、それ自体は現代に特有なものではないのだけれど、そういった可視化が現代においてはよりリアルタイムになってきていたり、さらにその情報にどこでもユビキタスに触れることができるという点ではちょっと違うのかもしれない。
ありやとりとおなじように
ただ、「みんながおんなじじょうほうをみてしまう」ことに対しても、必要以上に神経質にならず、公文氏が述べているように「ベキ分布の人為的是正よりは、ベキ分布との共生を我慢することが、あるいはそれ自体を受け入れやすくする工夫を講ずることが、情報化の出現局面での政策課題とされるべき」なんではないかと思う。そう、例えば、集合知の利用といったように。
もしかすると、そうした創発的な秩序の形成は、ヒトがはるか昔に失った、アリや鳥の群れがみせる"同期"を再び取り戻すことにつながるのかもしれないのだから。
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