2011年02月11日

記憶とサイン(あるいは、デザインされた内面のなかで生きるということ)

昨日は、新宿ピカデリーのサイン計画などを手がけたことで知られる早川克美さんの「情報コミュニケーション環境のデザイン」(Ustreamログ)というトークイベントに参加させていただきました。

自分でセミナーでお話させていただく機会はたびたびあるものの、他の方の講演を聞くことがほとんどない僕にしては、こうしたイベントに出向くこと自体、とてもめずらしいことなのですが、参加した価値があった!と思わせてくれる楽しい時間をすごさせていただきました。

早川さんとは昨年からTwitterで何度かやりとりをさせていただいていたり、今年のはじめにお会いしてお話をさせていただいたりする中で、とても共感する部分が多いので、今回はぜひ話を聞いてみたいと思って参加させてもらったのですが、あらためて早川さんの歩んできた思考の道のりの一端をお聞かせいただいて、なぜ共感する部分が多いのかがわかった気がします。

簡単に言ってしまうと、問題意識というか、興味をもっている対象が非常に近くて、それに対するアプローチにも重なる部分があるのだなと気づかせてもらったんです。
早川さんのように一貫してサインというものを考えてきた方にくらべると、僕のほうはなんとも浮気性で興味の対象もあちこち目移りしてしまう質なので、「重なる部分が多い」などと書いてしまうのは失礼なんですが、早川さんのやってらっしゃる建築環境のなかでのサイン計画や空間におけるコミュニケーションシステム設計における「空間の情報化」と、僕が専門にしているウェブやソフトウェアなどの情報アーキテクチャ、ユーザーインターフェイスの設計における「情報の空間化」が重なるのは、冷静に考えてみると当然だということに気づかせていただいたのが昨日のイベントでした。

早川さん、ありがとうございました。

さて、そんな貴重なひとときを過ごさせていただいたので、今回のエントリーではそれをきっかけにすこし自分の頭のなかも整理してみようか、と。

テーマとしては、1つ前のエントリー「声だから空」で扱ったことや、サインと象徴の比較しながら人間の情報体験の未来について考えた「読書体験のイノベーションの先に…」で扱ったものの延長として。

ずばり「脳みそのなかの内面世界を外にぶちまけた人間はこれから外化された脳みそのなかでどう生きるのか?」が今回のテーマです。

印刷以降の「記憶力の低下」

さて、話のとっかりとしては、最近ではこのブログの定番となっているマクルーハンから。

マーシャル・マクルーハンは『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』のなかで、H.J.チェイターの『写本から印刷へ』から次のような引用を行っています。

われわれの記憶力は印刷によってすっかり損なわれてしまった。われわれは、ただ本棚より本を取り出すだけで手に入るような情報で自分の記憶に負担をかける必要はないと考える。人口の大部分が文盲であり、本が貴重品であった当時は、非ヨーロッパ地域では現在でもそうなのだが、われわれの記憶力は独自の保存力に恵まれていたようだ。
H.J.チェイター『写本から印刷へ』
マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』内の引用より

マクルーハンはグーテンベルクの活字印刷術の変化によって起こった人間そのものの変化について考察を行っているのですが、その1つがこのチェイターの引用にもある「記憶力の低下」です。
いまの僕らは活字時代の人たち以上に、Google検索によってそもそも知識を蓄える意味を失いつつあったり、キーボード入力によって漢字が書けなくなる傾向があったりと、さらに「記憶力の低下」を推し進めているわけですが、記憶の代替・拡張としての記述された文字の複製技術に注目するマクルーハンの論は、これからの情報と人間の関わり方の変化を考える上でも参考になることが非常に多いと感じています。

引用はさらに続いて、

インドの学生たちはいまでも教科書を丸暗記でき、試験場で一字一句たがえず答案のうえに再現するのだ。経文も書かれずに、ただ口伝によってもとの姿のままに保存されているという。よくいわれることだが、「もし筆写され、印刷された『リグヴェーダ』のすべてが失われたとしても、たちまちのうちにその全文が完全な形で復元されるだろう。」
H.J.チェイター『写本から印刷へ』
マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』内の引用より

と、非文字文化における記憶力の大きさをうかがわせる話が引かれているのですが、その前にマクルーハン自身、"未開社会の原住民はしばしば文字文化からやってきた教師たちを見て不思議がり、「なぜ書き記すのですか、覚えていられないのですが」ときいたものだった」という話を紹介しています。

記憶の代替としての記録の道具としての文字以前の社会においては、やってきては去っていく声そのものを自分の内面に記憶しておくしかありませんでした。ただ、それは文字が生まれたあとの社会−具体的には、西洋でいえばギリシア以降、中世までの社会−においても、活字印刷による大量の同じ文字の複製技術が可能になる以前では、記憶の必要性は極端に大きく変化したわけではありませんでした。人々が記録としての文字、その大量複製によるポータブルかつ私的な所持・使用が可能になる以前は、文字が生まれたあとも相変わらず声の文化と同様に、記憶の必要性は高く、かつ記憶のための方法の需要が高く保たれていたのです。

視覚として思い出すべきか、聴覚によって思い出すべき

マクルーハンは、なぜ印刷技術の普及以降に「記憶力の低下」という人間の変化が表れたかを、先のチェスターの引用に続いて次のように説明しています。

だが、記憶が不完全になったことのさらに根本的な原因は、印刷の導入とともに視覚が聴覚−触覚連合母体からさらに完全なかたちで切り離されたということにあろう。そのため今日の読者が本を読むとき、頁を視ながら、その視覚的映像をすべて音へと翻訳する作業が一枚加わらなければならない。(中略)「喉もとまで出ているのにことばに出てこない」という状態は、過去の経験を視覚として思い出すべきか、それとも聴覚によって思い出すべきかがわからなくなっている状態なのだ。

本に印刷された活字という視覚刺激を擬似的に−というのも、中世までの音読と異なり黙読という読書スタイルに移行したから−声に翻訳するという認知的作業は、声を直接体験して直接的に記憶するというそれまでの認知的作業に比べて、はるかにまどろっこしく、記憶の形成に費やすリソースの少なくとも幾分かを翻訳作業に費やすことを余儀なくしたのでしょう。聴覚−触覚連合母体という直接体験的な情報への接触(前回のことばでいえば「浴びる」)が、文字情報の摂取という視覚偏重の間接的・翻訳的体験にシフトすることで、記憶のための場のいくらかを翻訳作業の場に振り分けなくてはならなくなった、というのがマクルーハンの「記憶力の低下」に対する説明の解釈として考えてよいのではないかと思います。

僕らはすでに印刷された文字を読むことに慣れているので、この翻訳作業を当たり前のこととして処理できるようになってしまっていて、それゆえにその間接的な作業が間接的であることにさえ気づきにくくなってしまっているのですが、これは声を直接的に記憶する以外に、知識を残す方法をもたなかった活字以前の人々にとっては、不思議な習慣以外のなにものでもないはずです。文字による記録による記憶の代替が可能になるためには、単に声へと再翻訳が可能な文字体系が成立すればよいだけでなく、その翻訳作業を実際に行うための学習あるいはその結果としての習慣化が不可欠です。つまり、文字という外世界のツールがあれば足りるというのではなく、その外化されたツールを使いこなすための内面世界での学習を伴わない限り、道具は道具として機能しません。

この学習と習慣化が道具が機能する上での前提ということは、文字に限らずあらゆる道具の前提でもあるわけですが、同時にすでにある道具を使いこなしている人にとっては見過ごされがちなものでもあります。そうであるがゆえに一般の人にはなかなか道具のデザインがむずかしく、この学習と習慣化のプロセスをメタ的に捉えられる技能をもったプロのデザイナーでなければ、使える道具のデザインというのがなかなか成立しにくいのです。

それはようするに、道具の使い方に関する学習による記憶とその使用に関する脳内リソースの消費が、道具を介さない直接体験では内容の記憶そのものに使われていたリソースを奪うということが発生していることの何よりの証明になるのではないかと思います。ドナルド・ノーマンもメモの使用は単に記憶の補助のための仕事ではなく、メモをとるという別の仕事を生み出すものだと言っていますが、とうぜん、仕事の内容が変われば、それまで頻繁に行われていた仕事に対する能力が低下するのも極めて自然なことではないかと思います。

手続き記憶とバーチュアル空間のデザイン

さて、とはいえ、印刷的な記述によって、すべての記憶が代替可能かといえば、そうでないことは誰もが知っていることでしょう。

たとえば、手順的な記憶、専門的な用語で言えば「手続き記憶」がその例です。
よく知った道を道順などを考えずに歩く、手馴れた仕事を行う、使い慣れたスマートフォンを操作する、などの作業がスムーズに行えるのも、手続き記憶が形成されているからですが、では、その記憶を記述に変換しようとすると、なかなか簡単ではありません。記述への変換がむずかしいというより、そもそも言語化することが困難で、たいていの手続き記憶は暗黙知になりがちです。

こうした日常的な活動をスムーズに行えることを可能にする手続き記憶は、日常的に利用されるツールをデザインする上では無視することができないものです。ことばや文字のように幼年期から子供時代にかけての長い学習期間を費やすことが容認されているのであれば別ですが、普段使いのツール類の使いこなしがそんなに長い時間をかけて学習しなくてはならないものであるとなると、とてもではないですが、そんなツールは使えません。
そうであるがゆえに、僕らはデザインをする際に、自分たちがデザインするものに概念モデルがユーザーの思考モデルに合っているかを重視しなくてはなりませんし、新しいもののデザインをする際でもユーザーインターフェイスにユーザーがすでに使い慣れたもののメタファーを持ち込んだり、手続き記憶が形成されやすい「学習しやすさ」というものを考慮してデザインしなくてはいけなかったりします。

それはデジタルなユーザーインターフェイスというバーチュアル空間においては、より重要なことで、物理的な制約がない空間であるからこそ、すでに学習されたモティーフやメタファなどの情報を設計に盛り込むことで空間そのものを認知・利用可能にする「空間化」を行わなくてはなりません。それこそが情報アーキテクチャーの設計に求められることでしょう。

もちろん、日常的なウェブのデザインやUIのデザインであれば、既存のウェブやUIそのものが利用可能なモティーフ、空間形態として存在するので、ゼロから情報空間の設計をやりはじめる必要はないわけですが、それは逆にいえば既存の制約そのものを同時に背負い込んでしまっていることでもあるので、そこからユーザーの新しい刺激的な体験を生み出すこともないということになります。

記憶のための建築

そんなことを普段から考えていたりするので、早川さんのリアルな環境におけるサインのデザインのお話を非常に興味深くうかがったわけです。

もともと学生時代には建築を勉強していたりもしていたので、空間内で人間が生きるということと、バーチュアル空間でのインタラクションによるシステムとのコミュニケーションのつながりを理解するのは、僕自身にとってはきわめて自然なことでもあるわけですが、最近マクルーハンの著書を読みながら思うのは、活字人間である僕らがしばらくないがしろにしてきた話し言葉世界における記憶というものをもう一度、利用可能にすることはできないだろうか、ということです。

そんなこともあって以前に読んだフランセス・A・イエイツの『記憶術』に描かれた、古代〜中世における建築物と記憶術の関係などにふたたぶ関心をもっていたりします。

敬虔なる中世がとくに記憶しておきたいと望んだ事柄とはどのようなものだったのだろうか? いうまでもなく、それは救済や天罰に関わる事柄であり、信仰個条であり、徳により天国に至る道であり、悪徳により地獄に落ちる道であっただろう。これらは、中世がその教会や司教座聖堂のあちこちに彫刻し、窓やフレスコ画に描いた事柄であった。これらは中世が記憶術によってとくに記憶しておきたいと望んだ事柄でもあった。こうして記憶術は、中世の教訓思想を記憶に留めおくために用いられることとなったのである。
フランセス・A・イエイツ『記憶術』

中世のゴシック建築が持ち運び不可能な本であったことは、このブログでは何度も紹介してきたことでしたが、それは持ち運び不可能なだけでなく、個人所有が不可能な本でもあったのです。

その意味では写本という本の形態もポータブルではあっても個人所有が不可能であるという意味ではゴシック建築と変わらず、そうであるがゆえに記憶の代替としての記録の利用がいまだ大々的には起こらず、記憶の支援装置としての建築物への彫刻、ステンドグラス、フラスコ画が建築そのものに一体化した状態で刻まれ描かれたのでしょう。
それが建築物と一体化していたのも聴覚−触覚的な人間にとって、物体をそのまま浴びること=特設的に体験することが当たり前であった−つまり間接的な翻訳を介して読むという学習を知らなかった−中世人にとって最適なメディアであったということは前回もゆっくりと考えてみたとおりです。

こうした記憶のための建築が、現在の記述を表示するための建築と異なり、それは中世までの人々とは異なる頭の使い方をする「記憶力の低下」が著しい現代人をターゲットにしているがゆえの必然であることも理解できるでしょう。

脳みそのなかで過ごしている人々の脳みそ

そんなわけで、中世における空間の在り方、そして、その捉え方、意味づけと比べると、現代の建築空間はきわめてバーチュアルなUI空間と近くなっています。
そして、そのUI空間というのが、そもそも従来の人間が頭のなかで行っていた思考を外化して、視覚的に認識・利用可能なツールとして変換したものだったりするので、人はスマートフォンやウェブを使っているとき、実は脳みそのなかを見ながら作業しているようなものだったりします。
という意味では、そのUI空間に似た建築空間、リアルな環境というのは、実は脳みそそのものであったりもするわけで、いまや僕らは脳みそのなかで過ごしているという風にも言えるだろうと思っているのです。

先に手続き記憶は記述に変換しづらいと書きましたが、それと同時に手続き記憶の再生や手続き記憶の学習自体が起こりやすいデザインを考慮すべきとも書いたわけで、空間デザインという意味ではリアルな環境においてもバーチュアルな環境においても、言語による記述だけでなく、手続き記憶的なものの一部もすでにデザインという行為を経て外化されているわけです。

そんな脳みそのなかで生きながら脳みそを使って生きている僕らのような現代人ってこれから何をデザインに求めるのだろうか?というのが今の最大の関心ごとだったりして、それゆえに、既存のIAやUIの作法=制約を越えたプロトタイピングをどんどん行いながら、このあたりを考えていこうというのが僕のイマココでしょうか。

リアル環境の脳内化という、なんとなく感じていたことを、はっきり事例で見せてもらえたのも、昨日の早川さんの話を聞いての収穫でした。たまにはほかの人の話を聞いて刺激をもらうのもいいことですね。



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タグ:サイン UI IA
posted by HIROKI tanahashi at 19:23 | TrackBack(0) | 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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