情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる 公文俊平

この本の初版第1刷は2004年10月28日である。
にもかかわらず、本書中では、『ものづくり革命』のニール・ガーシェンフェルドの個人用万能工作機械に関する構想が取り上げられていたり、『アンビエント・ファインダビリティ』が取り上げた世界(モバイルコンピューティングとインターネットが交差する地点)を一段高い概念レベルの上位層(この場合の上位は優劣とは関係なく単に抽象-具象を階層化した際、抽象化のレベルが高いという意味だ)において論じていたりして、まず、そのことに驚かされる。
また、最終章である「第5章 情報社会の新しい秩序」では、当ブログで過去にとりあげたネットワーク理論ベキ法則などが創発、同期などとともに取り上げられている点も、妙なデ・ジャビュにおそわれたような印象をうけた(ちなみに『アンビエント・ファインダビリティ』でもやはりネットワーク理論は扱われている)。
そして、何より1年半前に書かれた本であるにもかかわらず、現在、Web2.0をキーワードとして交わされている議論のほとんどが、すでにここにあるという感覚をおぼえるのが何より驚きでもあった。

近代文明=モダンの3局面 国家化、産業化、情報化

そのように現在、議論されている問題の多くを本書が含むのは、現在の情報社会をより大きな歴史的視点でとらえているからにほかならない。

多摩大学情報社会学研究所所長を務める公文俊平氏は、本書で、現代を「近代文明=モダン」におけるラストモダンの時代として位置づけ、さらに近代を国家化の局面、産業化の側面、情報化の側面の3つの局面にわけた上で、現在を産業化の成熟局面であり、情報化の出現局面であると捉えている。
公文氏が想定しているのは、社会変化は基本的に出現、突破、成熟、定着~衰退のS字カーブを描く推移であり、モダンの出現から突破が前時代のプレモダンの成熟から定着~衰退に重なって推移したように、そのS字カーブをさらに分解した国家化、産業化、情報化のモダンの3局面も互いに重なり合いながら推移していくと考えている。

情報社会におけるゲームのルール

公文氏は、近代化の突破局面でもある産業化の局面がその究極的な目標を、最初から販売を予定された上で生産される財やサービスを市場に出し、消費者としての市民たちの積極的な評価(=購入)を受けて利益をあげ、富を蓄積し誇示することにあるとしているのに対し、近代化の成熟局面である情報化においては「その究極的な目標は、それらの通識を智場に出して智民たちの積極的な評価を受けて-つまり「信望者」としての智民に対してそれを受け入れさせることに成功して-評判を高め、智、すなわち抽象的で一般的な説得・誘導力を獲得し発揮することになっていくだろう」としている。

ここで「智民」や「智場」と呼ばれているものは、産業化局面における「市民」や「市場」に対応している。国家化の局面であればそれに対応するものは「国民」であり、文字通りの「土地(領土)」となる。
簡単にいえば、国家化、産業化、情報化のモダンの3局面における社会変化は、国家化のゲームが国の威信をかけて「国民」や「領土」を争うものでその手段が文字通り戦争であった時代から、産業化の時代における企業間の「市民」の評価や「市場」の奪い合いとしてのマーケティング・ゲームへ推移し、出現局面である情報化の局面においてはゲームの質も変化し、「智民」や「智場」に対する説得力、誘導力を競い合うものになる。

ブロガーがブログを書きつづける動機

そして、このように書けばすでにピンときた方もいると思うが、現在、Webのネットワーク上で繰り広げられはじめたアルファブロガーと呼ばれる著名ブロガーたちがブログスフィアでもつ説得力や誘導力、あるいはマーケティングにおける説得力、誘導力をもつブランドの重要性、そして、さらにはSEOや情報コンテンツの価値が決め手となるWebサイトにおけるプルの力にしても、情報化局面におけるゲームの様相を呈し始めていることにあらためて気づかされる。

「金は天下の回りもの」という言葉があるが、産業社会においては貨幣が市場を滞りなくまわっていくことで社会全体の景気が潤ったのと同じ意味で、この情報化局面においては、情報そのものが知財として知のネットワーク、そして、智場としてのインターネット上を滞りなく回るようになると、それだけ多く流通される情報の価値は高まるのだと思う。
まさにそうした観点において、自身のブログへのアクセス数を増やしたいという一方的な欲求を満たすためだけに、トラックバック送信先のブログのエントリーの文脈を一切考慮せずにはられるトラックバックが、単に「スパム」と呼ぶだけではもはや足りないくらい、社会の知的利益を損ねることにつながるのかをあらためて考える必要があるはずだ。
一方で、公文氏は、「智民にとっての智のゲームの意義は、共働を通じての「楽しさ(pleasure)ないし「共愉(conviviality)」の達成にあるということもできるだろう」と書いているが、これこそ、自分のブログへのアクセス数を単に増やしたいという動機だけでは理解できないブロガーがブログを書きつづける動機だといえるでしょう。

直感的な正規分布、自然の中のベキ分布

上記のような分析を行っている前半も興味深かったが、後半の次のような考察は、違う意味で深く印象に残った。

たとえば、誰でもが対話型のジャーナリストになれるということで期待を集めたブログの世界、つまり、20世紀のマス・コミュニケーションとパーソナル・コミュニケーションの中間領域を占める「グループ・コミュニケーション」の1つの典型例だとみなせるブログの世界にも、それが普及するにつれて、やはり二極化現象が見られそうだというのである。
公文俊平『情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる』

ここで「二極化現象」と呼ばれているのは、パレートの法則にみられる「富めるものはますます富む」という傾向のことで、「見られそう」という予測はすでに「見られるようになった」という現実となっているといってよいだろう。
バラバシが指摘しているように、Webのネットワークには少数のノードが数多くのリンクを集めるベキ法則がみられることが知られている。人間の身長の分布などの正規分布と異なり、ベキ法則を示すベキ分布では、富めるものと貧しいものの格差はおそろしく大きい。
しかし、公文氏はこの現象について次のようにも書いている。

この宇宙の中では、ベキ分布(あるいは、ベキ乗の裾野をもつ分布)こそが、最も普遍的な分布であって、分布の中にもっぱら正規分布ばかりを見て取ろうとする傾向は、近代的平等主義者ないしリベラリストの知的バイアスだとさえいえるのかもしれない。
公文俊平『情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる』

僕は最近、それが「近代的平等主義者ないしリベラリストの知的バイアス」というよりも、人間が直感として理解する際のバイアスなんではないかと思っている。
例えば、自身のマグニチュードは本当は1つ目盛りが上がるたびにものすごいエネルギー量の変化があるにも関わらず、マグニチュード5と6の差は対数をとった形で示されるといった具合に。

そして、その直感重視の人間の思考は、時には、自然の現実を間違えて理解する。
コペルニクス以前の天動説だったり、ダーウィン以前には生物は形を変えないと思われていたことだったり。同じように、大きな違いを小さな違いに押し込めてしまう、つまり本来のベキ分布を対数化によって正規分布としてみてしまう傾向は、直感がとらえられる範囲にのみ目をむけ、非常に大きな数と非常に小さな数を切り捨ててしまう人間の認識の限界から生まれてくるのではないだろうか?
それは明らかに現代の情報社会における「情報」というものをバイアスのかかった視点でとらえてしまっているということにもつながるように思う。

機械的情報がすべてではない

まだ、うまく整理しきれていないのだが、

記憶の外部化が起きてる場面は日常でもたくさんありますが、例えば、知人の電話番号をどれくらい覚えてるでしょうか?実際のところ、携帯が覚えてて電池が切れたらおしまいなんてことに普通になってないでしょうか。

というのは、ある意味では事実と正反対なところもあって、もともと人間の脳は事実を大体のパターンで認識しているのであって、電話番号のような記録はもとより外部にあるという視点でみたほうがいいのではないかと思っている。
つまり、外部化可能な情報はそもそも脳が外部化可能にしたものであり、同時に自然の像をみたり、音を聞いたり、手で触れたものを瞬時に何かを理解する際に脳が用いるパターン認識とはまったく別物だということに、気づかないといけないのではないかと思っている。
(そして、外部化された情報に限れば、その情報のうちのあるものに集中的に人々の注目が集まるのは、まさにベキ法則の示すままの現象であり、さらにその集中を異常値のように扱うのは、正規分布を正としてしまうバイアスのかかった目をもつ人間の直感の傾向があるんではないかと思います。で、実際にはその集中は問題ではあるけど、決して不自然なものでも人為的なものでもない。)

また、脳にとっては、人工の機器だけが外部なのではなく、身体についている感覚器官、目や耳、鼻や舌、指先だって、単なる外部器官でしかなく、目で見たものはニューロンを通じて脳に届くときにはすでにイメージをともなっていないし、他の感覚でも同様だとということの意味を、ベキ分布が正規分布に見えてしまう私たちの住む情報社会を考える上では、もう一度、思考の対象にしてみないといけないのではないかと思っていたりする。

コンピュータというマシーンが処理する情報がすべてではない(あるいは近代化が示した情報化=記憶の外部化がすべてではない)。
アンビエントに存在する情報たち」では「京都や沖縄などを旅した際、自然のAtomが発信する情報表現は、すでにそのレベルのリッチさを実現してくれている」と書いたが、記号化、外部化可能な形にされた情報のみを脳は処理しているわけではないということを考えることこそが、これからの情報社会における課題なんじゃないかと思うわけです。

この話題は、あらためて、今読んでいる『考える脳 考えるコンピュータ』を紹介する際に扱わなくてはいけない問題だと思うので、とりあえず今日のところはここまで。

『情報社会学序説』ではここまで明記されてないんだけど、そういう情報社会の未来を考えさせてくれるくらい、大きな視点で語られている本だと思う。
最近のWeb2.0的思考から抜け出せなくなっている人にはおすすめです。



この記事へのコメント

  • SW

    > ある意味では事実と正反対なところもあって

    純粋に脳みその方からみたらそうなりますよね。

    どのレベルで説明を展開するかということに結局なっちゃいますが。。。
    2006年05月29日 16:00
  • gitanez

    > どのレベルで説明を展開するかということに結局なっちゃいますが。。。

    はい。そのとおりなんです。
    なので、ここはもうちょっと整理が必要かな、と。

    で、渡辺さんが触れられていたほうのことも、実は興味があって、
    記憶の外部化にともない、みんなが同じ情報を手にするようになっちゃうってのも、
    ほんとは前からあったんだけど、それが加速してたり、すぐそれに気づいちゃえるくらい可視化されてたりってのは、これまた公文先生の「可視化社会」って切り口からみるとおもしろいのかな、と思ってます。
    2006年05月29日 20:52

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