もともと江戸期あたりまでの日本の暮らしが家のなかに家具などのモノを置かない生活であったことは、以前に「茶室とインテリア―暮らしの空間デザイン/内田繁」や「普通のデザイン―日常に宿る美のかたち/内田繁」などの内田繁さんの著書を紹介するなかで話題にしてきました。
「断捨離」というライフスタイルは、明示以降に本格的に西洋的近代社会生活を取り入れるようになり、襖や暖簾などの仮設的な仕切りで仕切られただけの家の構造から、機能・用途別に壁で恒常的に区切られた部屋をもつ家の構造に変わって、さらに個々の部屋ごとにさまざまな家具や家電製品を置くようになった近代的な物質主義的なライフスタイルに対する反省であり、江戸期以前の日本の暮らしへの揺り戻しのようにも感じられます。
もちろん、このモノ離れの傾向は、シュリンクする国内経済に対する不安からくるものでもあるでしょうし、エコロジーとエコノミーがごっちゃになって「エコ」と呼ばれているのと同じで、複合的な要素からなるモノを持たない暮らしへの志向性なのでしょう。
空の空間は日本特有のものか?
でも、モノをもたない暮らし、部屋にモノを置かないライフスタイルというのが、真に日本特有の暮らしであったかというと実はそうではなかったりします。というのは、僕自身、最近、マーシャル・マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』
ジークフリート・ギーディオンが『機械化の文化史』のなかで指摘しているように、中世の部屋にはほとんど家具というものが置かれていなかったのである。マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』
ルネサンス以前の中世までは、日本の近世までと同様に、西欧においても家具を部屋に置くという暮らしは行なわれていなかったのです。
「近代文化史入門 超英文学講義/高山宏」でも書いたように、「個室はピューリタニズムが一人ひとりが神と向き合う場所を要請したことから生まれたもので」、それと「同時にそれまで一家に一台だったテーブルも、各部屋に備え付けられるように」なり、「用途別のテーブルがつくられるようになります。つまり、個室や用途別のテーブルというのものもこの時代の発明」なのであって、明治期以降に日本が西欧的生活として取り入れはじめた、家具を部屋に設置する暮らしというのは、実は西欧においてもルネサンス以降に芽生え、確立したライフスタイルでしかないということです。
では、なぜ、ルネサンス期の西欧において、そのようなライフスタイルの変化が生じたのか?
マクルーハンは、先の引用のすぐ前の文章でこう書いています。
グーテンベルク以後、視覚があらたに強調されたために、すべてのもののうえに光を要求することとなった。また新しく生まれた時間と空間の観念は、時間と空間を事物や活動によって満たされるべき容器と見なしはじめたのである。だが、視覚が触覚と密接な関係にあった写本時代には、空間は視覚的容器ではなかった。マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』
そう。またしても、それはグーテンベルクの印刷革命に起因する変化なのです。
今日は、このあたり−なぜ僕らは空間をモノで埋めるようになったか、なぜ、それ以前の空間は空だったのか?−をすこし考えてみることにします。
光を当てる、光を浴びる
マクルーハンは、グーテンベルクの印刷技術が人間の五感において視覚を過度に強調することで、その他の感覚から視覚を切り離し、視覚偏重の文化を生み出した点を指摘しています。その視覚偏重の傾向が、先の引用にもあったように「すべてのもののうえに光を要求する」ことになり、「時間と空間を事物や活動によって満たされるべき容器」として見なす思考スタイルへと印刷革命以降の人間の思考を変化させたというのです。
視覚偏重により時間や空間を事物によって満たすべき容器と捉える傾向は、まさに印刷革命の生じたルネサンス期の絵画における革新にも表れています。そう。ほかでもない遠近法という技法がそうでしょう。
遠近法により画家は観察した自然を画面の上に写し取り、自然を模写することが可能になりました。それは科学がさまざまな目盛りをもったツールを用いた観察測定方法によって自然を記述できるようになったのとリンクしています。
遠近法は自然という「すべてのもののうえに光を要求する」ことで、画面の上にそれを模写することを可能にする技術であり、ある意味では目盛りのついた目で自然を測量し、その測量結果をありのままのものとして表現する技法です。ところが、それ以前の中世の絵というものはそうではなかったはずです。中世の画家たちは、遠近法を用いたルネサンス期以降の画家のように、自然に光を当てることを要求せず、むしろ自ら発光する神の光を自分たちが浴びた感触を絵にしていたはずだからです。そう。それは感触であって、視覚への偏重傾向をもたない触覚も含む体験の表現ではなかったかと考えます。
おそらく中世人なら誰でも、あるものを透かし見るというわれわれの発想に当惑したことであろう。彼は現実のほうがわれわれを透かし見ている、というふうに受け取っていたであろうから。また瞑想によって聖なる光を見るのではなく、それを浴びるのだ、という風に考えたであろう。マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』
この「聖なる光を見る」ということで思い出されるのは、中世のゴシック建築です。あのステンドグラス装飾が施された窓は、室内のモノを照らし出すには不十分な採光機能しかもちません。「すべてのもののうえに光を要求する」ルネサンス期の遠近法による絵をもたらすことは、あのゴシック建築には望めません。
代わりに、ステンドグラスが嵌め込まれたゴシック建築は自ら光を放つ建築と見ることができるでしょう。それ自体が光を放つゴシック建築の空間で、人びとは光を浴びるのです。いや、光だけではなく、声を出して読まれた聖書の響きをあの空間のなかで浴びたのではないでしょうか。
閉じられる目、閉じられない耳
そうなんです。この「浴びる」という感覚は、光を感じる目以上に、音を感じる耳にこそふさわしいのものなのだと思います。閉じることができる目と、閉じることができない耳。目は積極的に見ることと積極的に見ないことを選択することができますが、耳は常に受動的に浴びせられる音に晒されています。
「あるものを透かし見る」僕ら現代人に対して、「現実のほうがわれわれを透かし見ている」と感じる中世人。光で照らされたモノを見る現代人と光り輝くモノからの力を浴びているのを感じとる中世人。印刷された本を読む現代人と写本を読む声を聞いた中世人。マクルーハンが指摘するグーテンベルク革命以前と以後を分ける視覚偏重と聴覚・触覚が連合した感覚。
こうした現代の視覚偏重に対比される、音の世界としての中世。
僕はこの音の世界としての中世を意識することで、空の空間が音の空間であることに気付いて納得したのです。
声はマレビトのようにやってきては去っていく
遠近法のように、普遍化された均質な空間(画面だけでなく、人間自身の思考空間も含めて)の上に、あらゆる自然のものを様々な目盛り(数値化)をもったツールを介した抽象化作業を経て模写を可能にするのが印刷革命以降の視覚的技術であるのに対して、印刷され複製された画一的な文字社会以前の声による文化においては、まさに声や音を自身の意志によるコントロールとは無縁の状態で浴び続けるように外の世界の影響を人間の側が浴び続けたのだと思うのです。声は文字のように、自ら読みたいときに読むこともできず、留めておこうにもその場限りで消えていきます。文字を白い紙の上に配置するようには、声を特定の空間に配置することはできず、声は常に空の空間を漂うことになる。まさに人の意志とは無関係にやってきて去っていく、折口信夫さんのいうマレビトと同じです。
このみこともちに通有の、注意すべき特質は、いかなる小さなみこともちでも、最初にそのみことを発したものと、すくなくとも、同一の資格を有するということである。それは唱え言自体の持つ威力であって唱え言を宣り伝えている瞬間だけは、その唱え言を初めて言い出した神と、全く同じ神になってしまうのである。折口信夫「神道に現れた民族論理」『古代研究―2.祝詞の発生』
折口さんの指摘する上の引用のような「みこともち」に関しても、自ら見るのではなく、外から浴びる声の文化であったからこそ、その威力は個人という存在を超えて、人から人へ移る(伝染る)と考えられたのだろうと思うのです。
声だから空
この声の文化における「移る」という影響の伝播が中世までの西欧や、近世までの日本における、空の空間を読み解く鍵だと思います。例えば、このエントリーの最初のほうにも名前を出したインテリアデザイナーの内田繁さんは『普通のデザイン―日常に宿る美のかたち』
「ウツ」は、からっぽ、「空・虚」を意味します。「ウツワ」と同根の言葉であります。器は何も入っていないがゆえに、何かによって満たされます。すでに満たされているなら、新たにものを入れることはできません。また「ウツ」は、「ウツロヒ」の語源です。「ウツロヒ」はさらに、「ウツル」=移る、「ウツス」=映す、「ウツシ」=写しへと展開します。「移る」とは変遷すること、固定化されないこと、「映す」は光や影が映し出されるように、別の何ものかを映し出すことです。そして「写し」とは「映し」出されたものを何らかの方法で定着させることでした。これらの言葉は「ウツ」という空虚なものがもつ、自在な可能性を示しています。
この移る、映す、写しの「ウツ」は、まさに人の意志とは無関係に浴びせられる声を中心とした文化でこそ、重視された概念ではないかと思います。そのウツは「空」であり「虚」であり「からっぽ」なのです。
声の文化のなかで生きた万葉人は、薄暗がりで人の顔が判別できなくなり「あの人は誰」と感じる時間である黄昏=「誰そ彼」時に、人が集まる辻に出かけ、夕占と呼ばれる占いをしたそうです。人の顔も判別できない黄昏時の辻に出て、男も女も自分が持っている櫛の歯をビーンと鳴らしながら、通りすがりの人の声に耳を澄ます。そして最初に入ってきた言葉で占いをしたそうです。最初に耳に入った言葉をの言霊を浴びる。言霊を浴びることで、その言葉と一体と化す。先の「みこともち」の話と同じでしょう。
白川静さんが、口に似たサイという文字を祝詞を入れた器をあらわすと解釈していることも同様の文化における儀礼を示していて、空の器に入れられた言葉を神の言葉として受け取ったことを示しています。(「呪の思想―神と人との間/白川静、梅原猛」参照)
見通すためにではなく、触知するために眼を用いる人びと
白川静さんや折口信夫さんの本にすこしは親しんだことがある僕は、日本や古代中国における、こうした文化傾向に関しては以前から知っていましたし、それが日本の空間デザインにも影響を与えていたことは理解していました。それがマクルーハンの声の文化と文字の文化、そして印刷文化を比較する研究である『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』
マクルーハンはこの本のなかで、アフリカの無文字社会の人びとが映画を現代人とは見れないということを発見した研究の事例を紹介しています。アフリカの人は映画の中である男が演技が終わって画面の端に姿を消すことが理解できず、男はいったいどうなったかを訊ねることがあるという事例です。
その発見は、アフリカの人たちに文字を読むことを教えるために映像を使った際にわかったのですが、文字が読めないアフリカの人は、文字が読める僕たちが理解する映画の見方もまたわからないということなのです。
僕らは安易に言葉で通じないことも絵や映像であれば通じると考えがちですが、遠近法で描かれた絵がそもそも印刷によって紙に言葉を配置するという技術のあとに生まれたのと同じで、遠近法的絵画も映画技術によって演出・編集された映像も、印刷された文字を読む学習をした人だけが読めるような文法をもっているのです。
文字使用は人間にイメージのやや前方に焦点を合わせる力を与え、それによってイメージもしくは絵の全体像を瞬間的に概観することが可能となる。非文字型の社会のなかに生きるひとびとはこのような後天的に獲得された習性をもたないし、そのためにわれわれが見るようには事物は見ない。むしろ彼等は対象物やイメージをわれわれが印刷された頁上に文字を追うように、断片から断片を追って走査する。かくて彼らは対象を離れたところから客観視する視座をもたない。彼等はまったく対象と「共に」あり、対象のなかに感情移入によってのめり込む。眼は見通すために使われるのではなく、いわば触知するために用いられる。聴覚と触覚からの分離に基礎を置くユークリッド空間は彼等には無縁なのだ。マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』
「眼は見通すために使われるのではなく、いわば触知するために用いられる」。
これが近代以来の視覚が他の感覚から切り離されてしまった視覚偏重人間である僕たちと、中世人や非文字文化社会の人びとの聴覚や触覚と視覚がまだ切り離されていない人びととの違いなのでしょう。対象と「共に」あることができる彼らと違い、僕らは対象からも世界からもそして自分自身からも切り離されて疎外され孤独を感じているのです。
大きなうねりを捉える…
僕らは自らのモノの見方に完全に囚われてしまっているので、こうした無文字社会のひとびとの見方を理解することができなくなってしまっています。自分たちにとって「見ればわかる」ほど、理解がやさしいと思われる絵や映像を、無文字社会の人びとは見ることができないということが想像できません。このことはモノで空間を埋め、予定や過去ログや歴史で時間を埋めようとする個人主義的な僕らにとって、空の空間で他の人びとや自然の声や存在を浴びる人びとの意識が想像しにくいこととも同じだろうと思います。
ただ、最初に書いた「断捨離」に向かう傾向は、もしかしたら、こうした無文字社会の人びとの意識へと現代に生きる僕らが再度近づきはじめている1つの兆候ではないかとも思えるのです。
それは「「個人」という古い発明品」で書いた個人の終わりや、1つ前のエントリーである「読書体験のイノベーションの先に…」で書いたサインの時代から象徴時代への揺り戻しとも深い関係をもって現在の大きなうねりとしてあるのではないかと感じるのです。
このあたりは引き続き、考えてみたい大きなテーマです。
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