企業におけるコンテンツの共有、そして、活用(「日本SGIが目指す“新境地”」の記事から)

なかなか面白い記事を見つけた。

Silicon Graphicsの破産法申請をどう克服するか-日本SGIが目指す“新境地”【後編】

米Silicon GraphicsのChapter 11申請により、少なからず衝撃を受けているであろう日本SGI社をめぐる記事だ。
最初に断っておくと、現在の日本SGI社は、はじめは100% Silicon Graphicsだった資本構成も、2001年9月のNECおよびNECソフトの資本参加を受けたことを皮切りに、2005年3月には、キヤノン販売(現、キヤノンマーケティングジャパン=キヤノンMJ)、ソフトバンク・メディア・アンド・マーケティング(現、ソフトバンククリエイティブ)、ニイウス(現ニイウス コー)など資本参加を受け、さらに2006年3月にはソニーからも約10%の資本参加を得て、増資しており、現在では、Silicon Graphics社の資本比率はかなり少なく、その意味でのChapter 11申請の影響はそれほど大きくはない。
その上、営業的にも「Silicon Graphics製品の売上比率は30%を切った」そうで、こちらの面でもすでに今回の事態(危機)への準備はできていたといえるのだろう。

さて、そんな話はさておき、僕がおもしろいと思ったのは、記事内の以下の部分だ。
すこし長くなるが、引用する。

 和泉氏はあるメディアのインタビューに答えるかたちで、コンテンツという言葉をこのように説明している。

 「コンテンツそのものの定義が広がっている。かつてはコンテンツと思われなかったようなものがコンテンツとして価値を持つようになっている」

 そして、その最たるものは「企業が持つコンテンツ」だという。企業はさまざまな情報を抱えている。これをITで処理し、データベースとして蓄積してはいるが、なかなか流通させ、全社員で共有する仕組みを作るのはむずかしい。さらに、情報としてとらえることができるできない社員のノウハウやスキル、経験、ナレッジといったものもある。それはそのまま個人に帰属していて、全社が共有するのは至難のわざだ。和泉氏はこれを、コンテンツとして蓄積し、共有することが必要だと指摘しているように見える。

なかなかこの視点はいいなと思う。
日本SGIというと、いわゆるWeb2.0的なところからは遠く離れたビジネスを行っている会社のような気がしていたが、ところがどっこい下手なWeb屋より目の付け所がよいではないかと感じた。

変化するリテラシー#3(総編集者社会)」のエントリーでの「自社に眠っているリソースをブログを書くことで有効活用できるような方法を見出し、ブログでの情報発信=顧客価値を育むイベントにもっていくことのできる「編集力」って、これからのビジネス、ビジネスに従事する個々人に求められるスキルなんではないだろうかという思いが強い」という発言だったり、
昨夜の「ソーシャルブックマークサービス、続々とリリース」のエントリーでの「個人的には、まずはビジネスシーンで利用者を増やすほうが手っ取り早いのではなんて思うので、エンタープライズ向けにASPだったり、パッケージのインストールなどで使えるSBMサービスがあってもよいかなと思っている」なんてのもそうだし、
従業員はオープンソース化しないのか?」では「いまの流れ的に、ソースコードやソフトウェア、コンテンツなど、あらゆるものがオープンソース化、公共財化する傾向にある。この流れの中で企業はこれまでの財の「所有=私有化」を基本にしたビジネスモデルの見直しを遅かれ早かれ迫られることになるだろう」てなことも書いているように、
当ブログでは、繰り返し、従業員をはじめとする企業内コンテンツ(=リソース)の私有化から共有化への転換による新しいビジネスの可能性について考えをめぐらせてきている。

そんな文脈で、先の記事を読んだので、非常に興味深かったのだ。

こうしたコンテンツの共有、活用を考える際には、企業という全体の視点から考えるより、むしろ、ボトムアップによる各ノードとしての従業員や個々の情報コンテンツの創発あるいは自己組織化をいかにして喚起できるかという視点で考えたほうが正解だと思っている。
それはこれまでのようなマス的視点で自分からあるクラスターに向けた情報発信や企業における階層構造的組織体制におけるコミュニケーション・ルートを前提とした思考では、むしろ「コンテンツの共有」における本質が見えなくなる。

僕は最近、Web2.0的情報社会(特にネット上での)環境が、きわめて情報の自己組織化あるいはそれにともなう自然発生的な人のつながりができやすく、さらにそれができることが非常に可視化されやすくなってきたと感じている。

『情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる』の中で、公文俊平氏は、日本における自動車産業が20世紀後半に示した「もの造り能力」や「改善能力」のような企業の組織能力が事前に合理的に計画されたものではなく、事後的に合理的と判断された創発的プロセスであったことを紹介した上で、次のように書いている。

われわれはいまようやく「創発」のなんたるかを理解し、それを単に事後的に観察・分析したり、模倣的に再発・創出させたりしようとしていた段階から、新たな創発現象そのものを意図的・人為的に生み出す段階に入ったのだ。恐らく、情報社会での監視と協力の問題も、そういった観点から捉えなおしてみることが必要だろう。
公文俊平『情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる』


「新たな創発現象そのものを意図的・人為的に生み出す段階に」入ることができたのは、間違いなくWeb技術や携帯電話をはじめとするユビキタス・コンピューティングの技術を中心とした情報技術を手にいれたおかげなのだろう。
しかし、それを単に情報技術だけの問題として、それが扱うコンテンツの共有や活用、さらにはそれによって進化する情報社会の有りようにまで目を向けていなければ、それこそ、Silicon Graphicsの二の舞だ。
そうなりたくなければ、先の記事で「経営者こそジャーナリスト」と評されている日本SGIの和泉社長のように、情報社会の智のゲームのルールをきちんと読み取る視点を養っていかなくてはならないだろう。

そして、そんなところにこそ、これからの情報社会を生き残る企業になれるかどうかの1つのポイントであるはずの「社内のコンテンツの共有、そして、活用」という課題に対する答えが見つかるのではないかと思っている。

 

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