読書体験のイノベーションの先に…

すでにこのブログにおいては、何度も紹介しているように、中世までは書物というものは音読されたといいます。
印刷革命を経た現在、視覚偏重によって黙読が当たり前になっていますが、来るべき電子書籍の時代、読む行為そのものを書籍のうえで視覚化することで、読む声を聞きながら読んだ中世人と同じように、読んでいるという体験のフィードバックを得ながら読むことを可能にできるのではないかと思ったりします。

本に書かれた文字ではなく、読んでいる自分の体験そのものを可視化するということ。それは紙の本ではできないけど、電子書籍ならその体験を可視化できる可能性があります。もちろん、それはどういう体験を可視化するのかを考えた上でそれを実現するインターフェイスをどう作るかによりますが、そこを電子書籍の売りにしない手はないのではないかと思うのです。

読書体験は編集体験

ただ、紙の本ではできないといっても、実はできる人は紙の本でも読む体験を可視化できます。
本に下線を引いたり、書き込みをしたりと本をノートのように扱う、松岡正剛さんの読書などはまさにそれでしょう。

ノートをとるのが好きな人とか、パワポが好きな人には、ゼッタイに向いている。というのも、これは「本をノートとみなす」ということだからです。しかもそのノートやパワポは真っ白のままではなく、すでに書きこみがしてあるノートや画面なのです。それを読みながら編集する、リデザインする。
松岡正剛『多読術』

この松岡さんのいう編集/リデザインとしての読書のように、読書とは編集であることをインターフェイス上で可視化してあげることが読書体験の可視化になるのではないかと思っています。

それはある意味では、活版印刷の職人が活字で版を組むことで、本の編集の一面を可視化しているのと似ている。活字の組版はなくなった一方で、それに近い編集としての読書をユーザーインターフェイスを介して、ユーザーに体験として感じてもらえるようにする。電子書籍は読書という体験を革新するのだ。

「同じ」であることの危機

こうした読書体験のイノベーションがない限り、電子書籍は大して成功しないのかもしれないとも思います。
ただ、読書体験の革新は必ずそれに留まらず、人間の思考そのものを変えることになるはずだとも思うのです。

同様に印刷技術とともに、ヨーロッパは人間の長い歴史のなかで、消費を社会の原動力とする消費時代の最初の段階にさしかかったのだった。なぜなら、印刷はたんなる消費媒体であり商品であるにとどまらず、人間が自分のすべての経験、あらゆる活動を線形システムにもとづいて再組織してゆく営みを教示していたからだ。また印刷は人間に対し(計画的に生産物を販売する)支持を創り出し、国民軍を創設する方法も教えたのだった。

印刷はそれ自体が商品であっただけでなく、多くの大量生産商品の作り方と売りかたの模範となり、「同じ」ものを欲し、「同じ」ものを買う市場を創出したのです。そして「同じ」を共有する国家を可能にし、国民軍の組織化を可能にしました。さらには線形システムの上での科学的思考と「同じ」結果を得ることを目的とした実験を可能にしたのです。逆にそれは個別性がまといついた芸術を科学から切り離しもしたのです。

これは以前に「版(version)の危機」というエントリーで触れたことにもつながります。さらに言えば「「個人」という古い発明品」で書いた「個人」の危機という話にもつながってきます。

読書が編集であるということを体験的に知った瞬間、本はどれも同じ大量生産品であるという、印刷革命以降、当たり前になっていた前提が崩れるのではないでしょうか。体験であれば、それは体験した人によって異なるのですから「同じ本」というのはなくなります。少なくとも「同じ本」であることの価値が薄れるのではないかと想像されます。

もちろん、同じ本ではなくなることは単に本だけの問題ではないのは「版(version)の危機」で書いた通りで、他の大量生産物の「同じ」であることにも影響を与えますし、知識には定義された「同じ」答えがあるように感じる考え方そのものを変えてしまうでしょう。見た目が同じでも体験が異なることを知った瞬間から、見た目の一致は意味をなさなくなり、文字どおり見た目と意味の関係が崩れるのではないでしょうか。

サインの無意味化、そして、デザインは?

見た目と意味の関係が崩れるということはどういうことかというと、アイコンやサインやキャラクターというものの有効性があやしくなるということに他ならないでしょう。さらに、それがどういうことかといえば、サインを扱うデザインが有効性を失うということですらあるのではないかと思います。

「デザイン」というのは、もともとはTo do with signs、「サイン」を相手にどう対処するかという意味の哲学と手法のことなんだね。

この“「サイン」を相手にどう対処するかという意味の哲学と手法”としてのデザインが、サインの有効性が失われることで、どうなるか?

さらにいえば、印刷革命による人間感覚の視覚偏重への変化は、中世までの声中心の世界においては決して切り離すことができなかった物事と人間の関係における構造、骨格、表面、それに対する人間の思考と行動といった一連の流れを断ち切り、モノの構造と表面を分離可能にし、そうであるがゆえにプロダクトデザインのような中身の機能とは切り離したデザインが可能になったという変化を含むものです。その視覚偏重が再び変化するときにデザインはどうなるのか?というのはきわめて興味深く感じるのです。

サインと象徴

サインが有効になったのは、言うまでもなく、同じサインを大量に生産できるようになった印刷革命以降の話です。同じサインに意味があったから大量生産したのではなく、同じてもものの大量生産が可能になったからサインが意味をもつ(内容としての意味と有効性のそれ)ようになったのです。

つまり、印刷技術の前にサインはなかったわけです(手書きのサインはあったかは不勉強なのでわかりません)。
では、何が代わりに何があったのか。象徴でしょう。

ゴシック建築を埋め尽くすあれ。それが象徴です。

象徴というのは、そういうもので獅子が何々を象徴する、薔薇が何々を象徴する、という風に、特定の視覚的同一性がひとつの意味をもつサインとは違い、獅子という象徴に対して複数の意味が関係するものでした。それが声の時代、ゴシック建築の時代にあった象徴です。サインが一義性を志向するのに対し、象徴は多義性を許容します。

そのひとつの例として、中国で殷の時代に文字が生まれたとき、文字はサインではなく象徴だったということでもわかります。
その時代の文字はいまの印刷された文字のようにまったく「同じ」でないばかりか、日本の古典に出てくるような手書きの文字程度にすら「同じ」ではなかったのです。
以下のように甲骨文・金文で書かれた文字は同じ文字として扱われるものでも実に多様な複数の字形をもつのです。





字形に変化の多いことは、文字としての未成熟や不安定を意味するのではなく、むしろその構造的意味が十分に理解されていることによる、自由な表出とみなされるものである。(中略)これは当時の表記者である史官たちが、文字形象の本来の意味を十分に理解し、正確に伝承していたからであって、単なる記号に終始していたのでないことを示している。

これがサインと象徴の違いでしょう。サインは交通標識のようなもので形態の揺れをほとんど許容しません。しかし、獅子や薔薇の象徴はそれがどんな風に描かれようと獅子や薔薇と認識できれば、象徴としての意味を成します。それと同じことが甲骨文・金文の文字にも言えるのです。それはサイン=記号ではなかったのです。

もちろん、読書体験のイノベーションがあったからといって、象徴の時代に戻るとは思えませんが、かつてサインが象徴にとって変わったように、サインもまた何かにとって変わられるのが、電子書籍の時代の先にある大きな変化ではないかと思ったりします。そして、サインが別の何かに取って代わられるとき、人間の思考や行動はどう変化するのか、社会はどんな様相を見せるのか。これはなかなか想像してみる価値のあるテーマだなと感じています。

さて、ここまでの射程距離をもった読書体験のイノベーション。それに取り組む覚悟はありますか?



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