例えば、こんな量子力学の「重ね合わせ」を説明した言葉と照らし合わせてみると、いいのかもしれない。
その結果として、測定というものは、人間による介入であれ機械的な介入であれ、ある意味想像的な行為と見なさなければならない。測定前は、可能性を示した情報が存在する。そして測定後には、以前には存在しなかった明確で特定の1ビットの情報が作り出される。ハンス・クリスチャン・フォン=バイヤー『量子が変える情報の宇宙』
量子の世界に限らず、いまや測定は創造的な行為と見なされるのかもしれない。つまり、誰かが発した情報を読むという行為は、その時点ですでに創造的な行為だといったほうがよいのだろう。
そうした世界においては「お前がこう言ったから、こんな結果になったんだ」などという言い訳は通用しない。
情報は自己コントロールする責任があり、同時に、情報のコントロール=測定はそのままあなた自身の創造的行為となる。
ようするに、こうした世界においてはもはや、誰かを批判する際には「相手が悪いから批判する」のではなく、「批判することで相手を悪者にする」という批判する側の自己責任が発生する、明確に創造的な行為なのだ。
とうぜん、そこでは誰もが傍観者ではいられない。
あなたは常に監視されているし、監視者のほうも監視結果を「測定」しようとすれば途端に監視される側の創造者の側にまわる。
誰が見ても同じ情報はもはやこの世には存在せず、あらゆる情報が測定する側=読む側の創造性によって規定されることになる。
逆にいうなら、その世界では書くこと=測定することによってしか、読むことができないのだ。
情報の一方的な受け手は存在しない。
read/write web.
情報の受け手は常に/すでに情報の書き手であるという世界がいまここにある。
この記事へのコメント