トマス・アクィナス 『神学大全』/稲垣良典

2011年も早1月21日になってしまいましたが、今年はじめてのエントリーです。
最初のエントリーを何にしようと迷っている間に、21日にもなってしまったので、もういい加減、何でもいいから書こうと思い、まずはこの本『トマス・アクィナス 「神学大全」』の紹介からはじめることにしました。

よりにもよって、何故トマス・アクィナスなのか?
13世紀を生きた、一般的には中世スコラ学の大成者として知られるトマス・アクィナスを、いま何故キリスト教などに関わりのない東の島国の21世紀を生きる僕が取り上げるのか?

それには2つの理由があります。

1つは、まだグーテンベルクの印刷革命がおこる以前で、建築物がポータビリティのない情報メディアとして存在していた中世という時代において、その時代において情報がもっとも集中していたであろう機関の1つである教会において、スコラ学が後世の文学に影響を与えたものの1つのジャンルとしての「スンマ(大全)」という百科全書的な知の形式の代表作である『神学大全』を著したのがトマス・アクィナスであるということが1つ。
印刷物としての書物はまだなく、写本と音読の時代であった中世において、教会という情報の伝達の場に属しながら、後の百科全書にもつながる大全という文学形式で知の模索を行なったトマスという存在を知ることで、この印刷時代もすでに超えた電子テキストの時代の知の偏りとその原因について何らかの理解が得られるのではないかと思ったのでした。

もう1つの理由は、昨年最後のエントリーとして紹介した「メディア論―人間の拡張の諸相/マーシャル・マクルーハン」の著者であり、今年生誕100周年を迎えるマクルーハンがその最後の著作である『メディアの法則』を、このトマスの『神学大全』に憧れて書いたのだと知ったから。マクルーハンの『メディアの法則』に関してはまた後日紹介したいと思っていますが、その優れた著作の憧れの対象としての『神学大全(スンマ)』とは何か? それを知りたかったというのが2つ目の理由です。

とはいえ、その『神学大全』なる書籍は、「第一部 神と神学について」「第二部 倫理と人間について」「第三部 キリストについて」の3部構成から成り、日本語版では45冊にもなる大著であり、しかも、1960年からはじめられた訳出作業がいまだ未完であり、現在も全巻が出版されていないという、おいそれと気軽に手は出せない代物です。

そこでまず手始めに読んだのが、この稲垣良典さんの『トマス・アクィナス 「神学大全」』
しかし、この本を読んで、トマスは僕のそれほど多くはない知的のヒーローのリストにすぐに加わったのです。

トマスの探求は、…近代思想の影響下に生きるわれわれが、操作や処理に便利な知の段階で探求を完結させようとする傾向があるのに対して、言語が一義的な明晰さを失う限界を超えてまで探求を徹底させるものである

といった一文などは、『神学大全』とはそのタイトルからして正反対の方向性をもつかのように感じられる『無神学大全』という著書もある僕のもうひとつの知的ヒーローであるジョルジュ・バタイユを彷彿とさせるものです。「言語が一義的な明晰さを失う限界を超えてまで」という知の探求の姿勢は、言語による理解ですべてが事足りるようなコンビニエンスな知の消費が当たり前になっている現代の知の在り方と比較すると何ともまぶしい限りで、それだけでも僕のトマス・アクィナスという人への興味は高まったのです。

「挑戦の書」として『神学大全』を読む

きわめて言語的でコンビニエンスな理解としては、トマスはアリストテレスの哲学とキリスト教神学を統合した人物とされます。

しかし、本書において著者はトマスの『神学大全』という大著を「一冊の書物」として読むとき、それがキリスト教社会とは遠く離れた現代の日本に生きる僕たちにとっても無関係とはいえない「挑戦の書」という読み方ができるのではないかと提案します。この「挑戦の書」という読み方こそ、先の「言語が一義的な明晰さを失う限界を超えてまで探求を徹底させる」というトマスの知の探求の姿勢を浮かび上がらせるキーワードといえます。

トマスは、知的探求を人間の本性として捉えており、その本性としての知的探求は人間が神に近づこうとして行なう活動であり、欲求にほかならないと考えたようです。この神に近づくための知的探求は、同時に幸福になりたいという欲求であり、最高善として追求する幸福とは神そのものだと考えていました。

それゆえに、トマスにとって「知的探求」とは次のような意味をもつことになります。

トマスによると「本性的に知ることを欲する」人間は、いわばその本性にかりたてられて知的探求の営みを行なうのであり、そしてこの知的探求の営みは「万人が神と呼ぶ」存在に行き着くところまで進めなければならない。そうでなければ知的探求は中途で放棄されることになり、完全な意味での「知的」探求ではありえないのである。

これは言語で何かを理解して「わかったつもり」になるコンビニエンスな現代の好奇心とはあまりに違いすぎます。それこそ、非ー知への到達こそを知的探求の最終目標としておいたバタイユの思想と、完全な意味での「知的」探求の現実世界における不可能性という意味ではピッタリと重なります。

「存在(エンス)」と「存在(エッセ)」

この現実世界での不可能性を宿したトマスにとっての知的探求の目標は、「存在」というものに対するトマスの独自の概念「存在(エッセ)」にも表れています。

トマスは通常、僕らが感知できる「存在」を「存在(エンス)」と呼び、この「存在(エンス)」という観点から「神は存在するか?」を問うことの無意味さを指摘しています。もちろん、神学者であるトマスは「神は存在する」は神学的に知的探求を行なう上で疑う必要もない大前提であり、むしろ、神の存在があるからこそ神に近づくための知的探求である神学が可能になるという関係にあります。
それゆえに「神は何であるか」と問うことも人間的な「存在(エンス)」の観点から、間違った知的探求を行なっていることになり、そうした「何であるか」という特殊規定を、神という全的な対象に紐づけようとすること自体が空しい作業になります。それゆえ、トマスは常に「神は何ではない」という否定神学によって語るしかないわけですが、それはまったく神の存在を疑う根拠になるわけではなく、神を知ることは最初から完全な意味での「知的」探求でしか得られないのであって、かつ、それは現世で到達不可能なものですから問い自体の立て方が間違っているのです。

こうした「存在(エンス)」とは異なる「存在」としての神の在り方をトマスは「存在(エッセ)」と呼び、自己原因である創造的な存在として捉えたのです。

創造は変化ではなく、関係である

こうした自己原因としての「創造」を考える際、創造という概念自体が僕らが考えるものとは異なってきます。

創造は「造る」という働き・能動でもなければ、「造れる」という受動でもなく、関係である、と言われると、この主張の重要さ、あるいは逆説性がすこし理解されるのではないか。要するに、トマスは創造は関係であると主張することによって、それはいかなる意味でも変化ではない、というラディカルな主張をしているのであり、創造を哲学的・形而上学的に厳密に理解するためにはそのことの理解が根本的に重要であると言いたいのである。

僕がこの本を読んで驚いたことの1つがこのくだりに書かれた「創造は関係である」ということでした。創造は無から何かを生み出し状況を変化させるものではなく、それはあくまで関係なのです。これは通常の「創造」という概念を逆転させるラディカルな主張です。

創造という現実に直面し、それについて適切に考察し、理解するためには、それをあたかもこの世界における一つの変化であるかのように宇宙論的な観点から考察するのではなく、われわれ自身の「究極的関心」の問題として、端的に言えばわれわれの「救い」にかかわる問題として考察しなければならない、ということである。

こういう言い方をすると、あまりにコンビニエンスな理解になってしまうのですが、それでもあえて要約すれば、創造は常に関係としてあり、それは「救い」につながるものとして用意されているにも関わらず、僕らは「存在(エンス)」の変化にばかり囚われてしまっているので、この「救い」への道、「救い」にいたる知的探求を怠っているということになるのだと思います。

こうした過程を経て、本書は「悪」の問題、「人間と幸福」の問題、「共通善」としての政治の問題に対するトマスの思想に触れます。
そして、そのすべてにおいてトマスは答えを出さずにいるのです。なぜなら、「言語が一義的な明晰さを失う限界を超えてまで探求」するのがトマスの知的探求の姿勢であり、「「万人が神と呼ぶ」存在に行き着くところまで進めなければ」「完全な知的探求」はありえないからです。

知は知ろうとする人間の側になるのではなく、それは神の側にある。人はただ神に近づくための活動として知的探求をするのであり、知を得るためではない。この「知」に対するトマスの挑戦は、現代を生きる僕らにとっても決して無視できるものではないかと思うのです。



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