アンビエントに存在する情報たち

ピーター・モービルの『アンビエント・ファインダビリティ―ウェブ、検索、そしてコミュニケーションをめぐる旅』を読んで以来、自分の中で「情報」というものに対する捉え方が変わってきました。

『ものづくり革命 パーソナル・ファブリケーションの夜明け』『量子が変える情報の宇宙』でも触れられているように、量子力学をベースに量子コンピュータや両親暗号の実用に向けた研究が進められている現代の物理学では、「情報」はAtomとBitが対立するような古典的な段階を超えて、「宇宙は、文字通り、そして比喩的にも、コンピュータにほかならない」(『ものづくり革命 パーソナル・ファブリケーションの夜明け』)と言われるように、情報を物質、エネルギーにつぐ第3の基本的な存在としてとらえるようになっています。

地下の街と3階のお店

Googleマップの登場以来といってよいと思いますが、一躍脚光を浴びるようになってきた地図情報サービスやGPSも絡めた位置情報サービスですが、単に地図情報、位置情報といっても、その地図や航空写真、あるいは路線図のようなものを、実際に私たちが歩いたり、クルマを運転したりながら、接している街の景色と重ね合わせるのは、想像するほど、単純ではないことは、ピーター・モービルが『アンビエント・ファインダビリティ』に書いているとおりだという気がします。

4月から東京を離れてすでに2ヶ月弱、名古屋で暮らしているのですが、名古屋周辺の巨大な地下街にはいまだに馴染めずにいます。
地図をみてもどこに何の店があるのかわかりませんし、最近ではすこし慣れてきたものの、一度、行った店に再び行くのも最初の頃はむずかしいほどでした。
名古屋の地下街を経験されたことがない方は、こんな風に書くと、僕が方向音痴なのかと思われるかもしれませんが、方向音痴どころか、むしろ、僕は他の人にくらべて結構、方向感覚には秀でたほうだと思います。普段なら地図と目的地を一致させるのもそんなに苦にしないほうですが、それはあくまで地上に限った話だったことに、名古屋の地下街を経験してわかりました。

実は似たようなことを京都に旅行にいったときにも感じました。
夜の食事をする店を地図を見ながら探していたのですが、なかなか目的のお店にたどりつけない。地図をみると、このへんだと思うところにそのお店は見つからなくて、何度もおなじところを行ったりきたりしました。
結局、そのお店がどこにあったかわかります? ビルの3階にあったんです。狭いとおりで両脇をいろんな美味しそうなお店が並んでいたこともあり、僕は地上のお店しか検索対象に含んでいませんでした。さらに目的にお店の1階が「江戸前寿司」のお店だったこともあり、「京都に来てまで江戸前はないだろう」と真っ先に除外対象にしていたせいで、余計に3階に目的のお店があったのに気づかなかったのです。
もちろん、地図のお店の住所には、店舗が3階にあることはきちんと表記されていました。しかし、地図上の位置情報ばかり気にしていた僕は、そのテキスト情報を完全に見逃していたのです。

あまりに貧困な情報表現

僕らの脳はきっと地下街や立体的に積み重ねられた場所の探索をうまく行えるようには設計されていないのでしょう。
もちろん、地下街がそれほど狭くなかったり、慣れ親しんだ街でビルの中にはいったお店を探す場合であれば、なんとか目的の場所を探すこともできます。でも、その許容範囲は、地上での目的地検索能力に比べればやはり低くなってしまいます。地上なら当たり前に見つけられて、現在地の認識をサポートしてくれるランドマークは地下には存在しなくて、目印を頼りに場所の検索を行う通常の方法も使えません。また、三次元表記がなされていない二次元の地図に照らし合わせて、認識することはむずかしく、実際、現在の2Dでの位置情報検索が縦方向にも階層化された現在の都市における目的地検索には向いていないことは、例えば、このgooラボの地図などをみればわかります(左ナビの「周辺検索」で「飲食店」などをチェックしてみてください。同じ建物に店舗が存在するため、10件のリストが地図上では重なってしまいます)。
gooラボ

JR東海の「そうだ 京都、行こう」キャンペーンの「春と夏の間にいったいいくつの季節を隠しているんだろう」というコピーではないですが、京都の寺社など、そもそも四季折々の花々や木々の変化を利用して季節の移ろいを楽しむことができるように設計/実装された街を歩くと、そもそも現在の地図情報/位置情報が提供してくれる情報の貧しさを改めて感じたりします。
花がきれいに咲いている期間というはたいていは非常に短く、京都に限らず、その花の一番きれいに咲いている時期にあわせてその場所を訪れようとしても、現時点ではなかなかむずかしかったりします。
桜の季節に京都を訪れた際は、JR東海の「そうだ 京都、行こう」キャンペーンサイトで桜の開花状況を発信してくれていましたので、いまどこでどのくらい桜が開花しているのかをわかった上で、旅のプランを立てることができましたが、それは「京都」「桜」というメジャーブランド要素が2つも重なったから可能だっただけで、現在、同じサイトを訪れても、いま時期である初夏の花(ツツジやサツキ)が実際に咲いているかどうかを知ることはできません。
そして、何より写真がいくらか掲載されているとはいえ、まだまだ雑誌が魅せてくれるような魅力あるイメージをWebが表現してくれていないのも確かなことです。

リッチな情報

そんな風なことを視野にいれると、リッチな情報表現とはいったい何なのだろうと思ったりします。リッチな情報表現というとたいていはFLASHによるイメージ表現だったり、Ajaxをつかったシームレスな検索を実現した表現だったりしますが、季節の花がいまどこで咲いているかも探せないし、旅先で訪れた街で目的の店も満足に探せるサポートもしてくれないのに、それが本当にリッチな情報表現だといえるのかなと。
そういえば、このブログで『アンビエント・ファインダビリティ―ウェブ、検索、そしてコミュニケーションをめぐる旅』してたのですが、Amazonが品薄状態だったらしく、欲しいと思ってもなかなか手に入れられず、おまけに都内の本屋でも同様の状況で、なかなか手に入りにくくなっていたようだと聞きました。いまはAmazonでもようやく在庫も揃ってきて手に入りやすくなっているようですが、そもそも、そんなときにどこなら目的の本を手に入れられるかがわからない。
それが『アンビエント・ファインダビリティ―ウェブ、検索、そしてコミュニケーションをめぐる旅』という本をめぐるものだったので、余計に象徴的に感じたりもします(「『アンビエント・ファインダビリティ』が見つかりません!」)。

Web2.0ブームが一般誌などにも影響が広がっていて、それはそれでWeb業界で働くものとしては喜ぶべきことなのかなとも感じていますが、その一方で僕自身は単にWebという狭い領域だけでものを考えるのではなく、もうすこし広い「情報」や情報社会という観点で、現在そしてこれからの技術やその利用法、そして、その影響などを考えてみたいなと思っている今日この頃だったりします。

リッチな情報表現を求めるより、リッチな生活が可能な情報社会が実現できたほうがうれしいですから。
そして、京都や沖縄などを旅した際、自然のAtomが発信する情報表現は、すでにそのレベルのリッチさを実現してくれているのですから。


時には、Web2.0は儲かるのかなんて、ビジネス一辺倒の想像力を捨てて、現在の、そして、これからの情報技術がどれだけ自分たちの物的生活、精神的生活を豊かにしてくれるかも考えてみたほうがよいんじゃないでしょうか?

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