2010年12月31日

メディア論―人間の拡張の諸相/マーシャル・マクルーハン

2010年大晦日。
今日は、1980年12月31日に亡くなった、カナダ出身の英文学者であり、文明批評家であるマーシャル・マクルーハンの没後30年にあたります。
そして、明日になれば、1911年生まれのマクルーハンの生誕100周年を迎える。

その節目の今日こそ、これまで何度となく取り上げてきたマクルーハンの『メディア論―人間の拡張の諸相』を紹介にふさわしいのではないかと思い、このエントリーを今年の最後のエントリーとして選びました。

本書でマクルーハンが「話されることば」や「書かれたことば」、「道路と紙のルート」、「数」、「衣服」、「印刷」、「漫画」、「印刷されたことば」、「写真」、「新聞」、「自動車」、「広告」、「タイプライター」、「電話」、「蓄音機」、「テレビ」などのさまざまなメディアの変遷を追いながら人類の歴史をひもとくようにして語るのは、一貫して「すべてのメディアは人間の機能および感覚を拡張したものである」ということです。
この本はメディアという視点から捉えた人間の変化の歴史を描いたものであり、メディアによって拡張されることでそれ以前の人間とは異なる生物に変化する「ヒト」と総称される生物群の変化の様相を綴ったものだといえるでしょう。

そう。この本を読むと、あらためて「人間」と僕らが一言で呼んで、あたかもそのすべてが自分たちと瓜二つの思考や感じ方をするはずだと決め込んでいる生物群の多様さに驚かされます。
尻尾がある動物と僕らが異なるように、遠近法で世界を見るようになってしまった僕らがそれ以前の人間とことばるのだということを僕らは普段忘れてしまっています。そんな僕らが忘れてしまっている事柄をあらためて僕らに見せてくれるのが、この『メディア論―人間の拡張の諸相』という本です。

本書の「はしがき」でマクルーハン自身が書いているのですが、本書の出版時にマクルーハンは編集者にこんなことを言われたそうです。

編集者が困惑して言ったのは、「あなたの素材の75%が新しい。本として当たるためには10%以上新しいことがあるようではいけない」ということであった。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

その編集者の感じたことはいまなお多くの人が感じることではないでしょうか。
そう。この本に書かれたことはいまだに「75%が新しい」のではないかと。

それでは、すこし内容を紹介することにしましょう。

アルファベットがもたらしたもの

本書に限らず、マクルーハンのメディア論を考えるとき、彼が人間の拡張にもっとも大きな変化をもたらしたメディアのひとつとして考えているのがアルファベットであり、その影響力は僕らが普通に考えるよりはるかに大きなものであることは忘れてはいけないでしょう。

すでに「「個人」という古い発明品」でも触れたことですが、マクルーハンはアルファベットによって書かれたことばが生まれたことにより、「個人」や「内省」というものが生じたと論じています。

書くことが発達し、生活が視覚的に編成されると、個人主義、内省、などなどが発見されることになった。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

マクルーハンは、アルファベットがコンテキストに依存しない形で表音性をもつことの特殊性に注目します。

例えば、僕らが普段用いている漢字などは、その逆に同一の文字であってもコンテキストによって読みや意味が変わりますが、アルファベットの場合、そのコンテキスト依存性がきわめて低いというのです。また、漢字のような表意文字とは異なり、1文字では何の意味ももたないということも、アルファベットという文字のコンテキストへの依存性の低さを示しています。

こうした特殊性によって、アルファベットはその他の文字がなしえなかった、聴覚をはじめとするほかの感覚からの視覚の切り離しとその機能の強化を可能にしたのだとマクルーハンはいいます。そして、それと同時に、聴覚・触覚的なものに強く制約されてきた古代の呪術的な世界から人間は解放され、部族民から個人への道を歩みはじめたのだと論じます。

中国社会は幾世紀にもわたって表意文字を使用してきたが、その家族および部族の継ぎ目のない微妙な網の目が脅威にさらされることはなかった。2000年前の古代ローマの属領ガリアでそうであったように、こんにちアフリカでアルファベット文字を身につけて一世代もすれば、少なくとも、まず部族の網から個人を解き放つに十分である。この事実は、アルファベットで綴られたことばの「内容」には関係がない。それは人の聴覚経験と視覚経験が突然に裂けた結果である。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

メディアは人間の感覚比率を変化させる、とマクルーハンは言います。
アルファベットという新しいメディアが誕生したことで、人間の感覚のなかで視覚がもつ比率が必要以上に大きくなり、世界は視覚のもつ性質により連続的な時間・空間をもつものへと生まれ変わったのです。

情報の交通とその速度

このアルファベットが登場したのはギリシアの時代でしたが、その「書かれたことば」が真に社会を大きく変化させたのは、ローマの時代に至ってからでした。その変化を担ったのは、「書かれたことば」の伝達の速度を加速することになった「車輪」や「道路」というメディアであり、アルファベットを効率的に運ぶための「紙」というメディアでした。

車輪、道路、紙などによる加速の眼目は、つねにいっそうの均質かつ画一の空間となって力が拡張していくところである。それゆえ、ローマの技術の真価が理解されるようにいたったのは、印刷術が発明されて、ローマの旋風よりもはるかに大きな速度が道路と車輪に与えられることになったときであった。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

ローマ時代に、車輪と道路、そして、それらのメディアによって組織化が可能になった軍隊と初期帝国主義により、アルファベットというメディアを用いた視覚優位による均質化と画一化の文化形態もひろく世界に拡がることになります。
その均質・画一の文化の拡張が、ふたたびローマ時代とは比較にならないほどの加速を得て繰り返されるのは、ルネサンス期の印刷術の発明を経た17世紀以降であり、そこでは遠近法や測量術、あるいは機械化や科学的思考といった均質化・画一化の手法により、大々的な帝国主義政策が展開されます。印刷術によってアルファベットの表記速度は一変していましたし、蒸気機関の発明で陸路においても海路においてもローマ時代とは比較にならないほどの速度と力で人や物、そして、情報の移動が可能になっていました。
僕らは現在の均質的で画一的な世界を、とかく近代の帝国主義や資本主義の影響によるものと考えがちですが、マクルーハンが示してくれているように、それはそんなに歴史の浅いものではないのです。僕らは西洋の歴史をあまく見すぎていますし、そこで起きたさまざまな変化の影響関係に対して無知でありすぎるのでしょう。

画一的、連続的で、限りなく反復可能な小単位なるものはグーテンベルク印刷技術上の事実であるが、それがまた微積分という関連概念を吹き込んだ。それによって、いかなる捉えがたい空間も、まっすぐで、平らで、画一的で、「合理的」なものに移し変えることが可能となった。この無限という概念は、論理によってわれわれに押しつけられたものではない。それは、グーテンベルクの贈り物であった。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

そう。微積分の技術がどんなに複雑な曲線でも、まっすぐで平らな画一的なものに置き換えることを可能にしたように、それまで人々を隔てていた海や山や文化の違いも、まっすぐで平らな画一的なものに置き換えることができる手立てを手に入れることができたのです。

ポスト・グーテンベルクの時代

あらゆるメディアが人間の機能または感覚の拡張であると見做すマクルーハンにとって、その目はつねに「情報」に向けられているといってよいでしょう。

道路や車輪のように足を拡張することで情報の受発信の範囲や速度を広げるか、あるいは文字や紙や印刷のように記憶の拡張として情報の蓄積力を上げるか、はたまたメガネや顕微鏡やテレビやインターネットのように、そもそも知覚性能を向上させるのかに関わらず、あらゆるメディアは人間が「情報」に接し扱う能力を拡張させるものだという風に、マクルーハンの論は読むことができます。

それはマクルーハンのこんな言葉からも伺いしれます。

機械時代の終焉を迎えているにもかかわらず、なお人びとは、新聞やラジオは、いやテレビさえも、情報形態であることは認めながらも、実は車や石けんやガソリンと同じように有形商品(ハードウェア)の製造者や消費者によって売買されるものと考えていた。オートメーションが地歩を固めるにつれて「情報(インフォメーション)」こそが肝心の商品であって、有形の生産品は情報の移動を助ける付随物にすぎないことが明確になってくる。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

このあたりは、リチャード・ドーキンスの「ミーム」も想起させますが、そもそもマクルーハンのメディア論は、第2の自然としての人工物も含めた意味での進化論としても読むことができると思います。この引用を踏まえると、「ソフトウェア化するプロダクト」で書いたような現在の物理的なプロダクトがどんどんソフトウェア化してiPadなどのプラットフォーム的な製品に組み込まれる流れも自然なことのように思えます。そもそも、「有形の生産品は情報の移動を助ける付随物にすぎない」のですから。

ところで、マクルーハンは現在はすでに、均質化・画一化へと向かうグーテンベルク革命の流れから、それに対抗する形の多様化・再部族化の流れにあると見ています。マクルーハンの死後すでに30年を経過した僕らの時代は、よりいっそうポスト・グーテンベルクの時代であるはずです。もちろん、単に印刷の時代からインターネットや電子書籍の時代になったという意味で、ではなく。

車を車以外のものとして受けとるような工夫がなされているからといって、これを地位の象徴と受けとるのは間違っている。そうした誤解は、電気の技術に応じて形態を変えつつあるとはいえ、あくまでも機械の時代の晩期の生産品である車というものの意味全体を読み誤ることになろう。車は画一化と規格化のメカニズムの傑作であって、世界ではじめて階級のない社会を生み出したグーテンベルクの技術および文字文化と一体をなしている。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

僕らはここでマクルーハンが指摘しているように、車をはじめとする物理的な製品も情報によって差異化された情報コンテンツの一種であることをすでに知っています。音楽コンテンツも書籍もそれまでの物理的なパッケージから解放され、電子的に入手可能な情報そのものであることが経済的にも明確になった現在、画一化や均一化への流れを示すグーテンベルクの時代のメカニズムからは解放されているはずです。

21.1世紀の地球村で

ところが、どういうわけか僕らはいまだに「オリジナル」だとか、連続した地平において自由度と孤独をともに有した「専門性」だとか「個人の意思」だとか、そういったグーテンベルク時代の遺産にしがみついてもいます。

車を一も二もなく地位の象徴として受け入れ、その発展した車種を高い地位の人間の使用のみに制限しようとするのは、車および機械の時代のあかしではなく、この画一化と規格化の時代に終止符を打って、地位と役割という規範をふたたびつくりつつある電気の力のあらわれというべきである。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

マクルーハンは、情報の加速が極限まで達し、世界のどこにいても即座に情報に触れることが可能になった「電気の時代」においては、ローマの軍隊や帝国主義時代の近代国家が中心から周縁へと、外に外に向かったベクトルは無意味なものとなり、いつでもどこでも情報の受発信が可能な、中心も周縁もない世界においては人間の拡張は内側に向かうといっています。それがマクルーハンのいう「地球村」であり、「地球村」では人間がその内部に神経ネットワークをはりめぐらせているように、情報ネットワークを地球上いたるところにはりめぐらせています。もはや人は自分自身の体をいまいる場所から外に向かって移動させる必要はなく、「地球村」のネットワークの一部となった自分の神経ネットワークの内部のどこに自分をポジショニングするかが問題になっているのです。

そのポジショニングこそが「地位と役割」にほかならないのでしょうし、さらにマクルーハンが視点の重視からふたたび聴覚や触覚を重視した在点へと感覚比率の変化が起こっていることを指摘しているのもそこに関連しています。

僕らがそれを意識できているかどうかに関わらず、僕らはすでに近代的な個人から「地球村」の部族民へと変化しているのです。いや、むしろ、その「意識」とやらがグーテンベルク時代が生み出した亡霊でしかないのでしょうけど。

とはいえ、明日からはじまる21.1世紀からは徐々に、この古い「意識」が誤解した世界の常識も現実の側から変わってくるような気がします。もちろん、その変化に応じた新しいメディアの登場も明らかになってくるでしょう。

そんな予感を抱きつつ、残り少ない2010年のカウントダウンでもしようか、と。



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posted by HIROKI tanahashi at 18:36 | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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