ハーモニー/伊藤計劃

「僕らはきっと、とっとと個人であることをやめなくてはいけないのかもしれません」

そんなことを、僕は1つ前のエントリー「「個人」という古い発明品」で書きました。
そして、そんな一言が、僕をこの故・伊藤計劃さんの『ハーモニー』を読むことに誘ってくれました。

<theorem:number>
 <i:こどもがおとなになると、言葉になる>
 <i:おとながしびとになると、泡になる>
</theorem>

いや、それは正確じゃない。より正しく言うのなら、

<rule:number>
 <i:こどものからだは、おとなになるまで言葉にしてはならない>
 <i:おとばは死んだら、泡になるまで分解されなくてはならない>
</rule>

という禁止で語られるべき。」

そう。これはETML 1.2というマークアップ言語で書かれた本。
この”E”が何かはここでは明かしません。実際に読んでみて、自分で見つけて欲しいと思うから。

とはいえ、このETML 1.2でマークアップされているってことに、僕はそれほど興味がひかれたわけではありません。
僕はもうすこし違うところに興味をひかれて、この本を読み進めたのでした。

やさしい社会

まず、僕がこの本のどこにひかれたかを明らかにするために、最近このブログでは恒例になりつつあるマクルーハンの引用からはじめましょう。

いずこであれ、西欧的環境のなかにいる子供は、均質な時間、均質で連続する空間という抽象的な時間空間、すなわち対象をはっきり限定し、視覚化して提出する技術が作り出したものによって取り囲まれている。そして、このような均質な時間空間のなかでは「原因」はすぐ「結果」を生み出し、それがまた原因になるという連鎖性をもつために、事象は同一平面でつぎつぎと連続的に発生していく。

すでに本書『ハーモニー』を読んだ方なら、この引用にピンとくるのではないでしょうか。「均質な時間、均質で連続する空間」、それは本書が描き出した世界にほかなりませんし、その世界のなかの「日本」においては、長い間、海外で過ごしていた主人公・トァンが吐き気を催すほどに、地下鉄の乗客たちも均質化しています。

そして、何より、その無数の小さな〈生府〉によって営まれる大規模な福祉構成社会においては、あらゆる身体や精神に害をもたらす(かもしれない)「原因」は、身体に埋め込まれたWatchMeという医療分子のネットワークによって、悪い「結果」が実際に起こる前に予測され、良い「結果」へと変換されます。
「連鎖性をもつために、事象は同一平面でつぎつぎと連続的に発生していく」のですが、社会全体がごくごく薄いピンク色に彩られた、やさしい社会においては、その連続的に発生する事象はもはや何も起こらないのと変わりません。

<definition>
 <i:大人になること、それは>
  <d:WatchMeを身体に入れて>
  <d:どこかの生府の合意員となって>
  <d:生府のサーバにカラダを繋がれて>
  <d:生活指標をどこぞの健康コンサルからもらって>
  <d:共同体のセッションにオンオフ両方きちんと顔を出す>
</definition>

医療分子WatchMeによって常に健康を管理されるカラダ。そのおかげで、この社会に暮らす人は、風邪をひかないし、糖尿病にもならない。ほとんどの病気がなくなって、人は老衰と事故以外で死ぬことはない。事故といっても、ジャングルジムでさえ人工知能化されて、子供が足を踏み外しでもすれば、そっと抱きかかえる、ぐにゃぐにゃとした薄ピンクの物体になった社会では、自動車事故も飛行機事故も、人にやさしい人工知能によって起きなくなっています。
もちろん、そうした人工知能をつくる人びとの側も「お互いが慈しみ、支え合い、ハーモニーを奏でるのがオトナだと教えられて育って」いて、誰もが互いを信じて、慈愛に満ちています。

そんな社会で暮らす、まだカラダを監視するWatchMeを体内に入れていない〈オトナではない〉15歳の主人公たち3人が、自殺を図るというのが、本書の最初のストーリーです。

デッドメディアとしてのこころ

15歳の主人公たちは、自分たちがある段階まで成長するとカラダにWatchMeを体内に入れられて「おとなになると、言葉になる」ことや、人びとがあまりに慈愛に満ち、互いに信じ合いすぎている、やさしすぎる社会を嫌悪しています。すべての人間が大事な社会のリソースであるという考え方を嫌い、自分は社会のリソースではないことを示すために、社会が大事にする自分の命の破壊というテロ行為を実行しようとして自殺を図るのです。

結局、未遂に終わり、主人公は助かり、13年後のストーリーを生きることになります。
そして、ある場面でこんなことを口にする。

わたしは逆のことを思うんです。精神は、肉体を生き延びさせるための単なる機能であり手段に過ぎないかも、って。肉体の側がより生存に適した精神を求めて、とっかえひっかえ交換できる世界がくれば、逆に精神、こころのほうがデッドメディアになるってことにはなりませんか。

ネタバレを避けるためにも、この台詞がどんなシーンで口にされたかの説明は省きます。
ただ、身体に装着した超小型のデバイスを通じた拡張現実(AR)からさまざまな情報を得ることができる、この社会においては、さまざまなメディアが「デッドメディア」になっていることだけは補足しておきましょう。印刷された本はもちろんのこと、探し物がどこにあるかもARを通じてわかるので、物理的な場所の記憶も、記憶を行なうための分類や整理も不要になっているのです。

そうした社会において、15歳での自殺未遂の結果、生き延びて28歳になった主人公・トァンは、精神、こころもデッドメディアになる可能性を口にします。

さて、ここでもう一度、マクルーハンの文書を引用しましょう。
先に引用したもののすぐあとに書かれている文章です。

だがアフリカ人の子供は(五感のなかで)谺のように反響する話しことばが作り出す暗示的で呪術的な世界のなかに住む。彼は〔ドミノ式に実効をただちにもたらすような〕動因とは出遭わず、〔従うべき、様式、つまり〕形相因に出遭う。つまり文字のない口語社会ならかならず育てているような諸々の事象が構成する構図に出遭う。そして、こうした構図がつくりだす場の様式が原因として機能するのだ。

この引用も、すでに『ハーモニー』を読まれた方ならピンとくるものでしょう。
ここでマクルーハンが言及しているアフリカの子供の精神・こころは、僕らにとっては、まさにトァンが口にした意味での、すでにデッドメディア化した過去の精神、こころと言えます。

「個人」と個

万葉の時代、僕らの祖先は、夕方に辻(交叉点)に立って、通りすがりの人々が話す言葉の内容を神の託宣と捉えるこころを持っていました。それはいまの僕らのように、個人個人が自由な意志をもったこころというより、神とつながる他の人びとのこころとつながった共同体的なこころです。
<雄略天皇が葛城山で異様な神に出会って「お前は誰か」と問う>と<相手は「オレは一言主神である」と答えて>、神の名を明かしてしまうことで雄略天皇に葛城山を征服されてしまうという言霊が生きていたのが、その時代のこころの有り様です。そうしたこころにとって、ことばを発することはそれそのものが行動することと同義でした。

「構図がつくりだす場の様式が原因として機能する」のは、そうした個人の意志などを媒介せずに、ことばがそのまま行動となる、こころを有していたからです。だからこそ、祝詞を唱えることでいつでも原初に回帰できるという精神も社会で共有されました。

つまり、こうした古代や無文字社会であるアフリカの社会においては、文字社会である僕らが当たり前と感じている「個人」という概念や、その個人がもっているのが当然と考えている意志などは存在しないのでしょう。ただし、僕たちにとって、そうしたこころの有り様というのはまさにデッドメディアです。

ただ、どうでしょう。
「個人」という概念をもたない、こころのメディアは必ず個を喪失するのでしょうか?
個人の喪失は、必ずエヴァの人類補完計画のような結末に至るのか?

僕が本書を読みながら感じていた違和感はまさにそこにあります。
違和感というからには、僕は、個人の喪失と個の喪失はまったく別物だと考えているのです。

そう。「僕らはきっと、とっとと個人であることをやめなくてはいけないのかもしれません」と言ったからといって、僕は人類補完計画のようなイメージはまったく持っていないのです。

なぜなら、この小説でも描かれた電子のメディアが作り出すこころは、実はこの小説のような世界を実現してはくれず、もっと猥雑で、遠い部族の太鼓が鳴り響くような、そんな多様な光景を現出させてしまうはずだから。
このあたりはむしろ文字社会と自身のこころ=意志との関係に盲目になりすぎた結果、すでにデッドメディアとなった古代のこころの有り様を視野の外においてしまっているがゆえの誤解なのかもしれません。

というわけで、読んでない人には、なんのことやらわからない紹介になりました。ネタバレに注意な本の紹介ってむずかしいですね。
でも、おもしろいのでおすすめの一冊です。お休みのあいだにでもご一読あれ。



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