フランス国立視聴覚研究所(Institut National de l'Audiovisuel)は、4月27日より、10万本にもおよぶ、テレビ番組、ラジオ番組をネット公開している。
「Archives pour tous(アーカイブ・フォー・オール)」と名づけられたこのサービスより、1920年代のファッションショー、1968年の5月革命、ヌーベルバーグなど、さまざまな映像/音声を視聴できるようになった。
国主導でこうしたアーカイブを行い、それを公開するというあたり、フランスという国が、自国の文化を明確な形で自国のブランド価値、無形資産として位置づけ、自国の利益創出のためにマネジメントしようとしていることがよくわかります。
それはこんな制度にも現れているんじゃないでしょうか?
そもそもフランスでは、法定納品制度という法律があり、国内のすべてのテレビ・ラジオ番組がこのINAに納められているそう。今回はその膨大な情報がインターネット上でも公開されたということになります。
Aileさんによれば「フランスは92年の法律でINAに保存を義務付け、3年で所有権も譲渡する事になっている」んだそうだ。
(このへんの事情を含め、INAやArchives pour tousについては、フランス好きのAileさんのエントリーのほうが詳しいのでそちらをご参考に)
そんな動きを目の当たりにすると、つい最近話題になった「カルティエ現代美術財団コレクション展」に対する、石原都知事のあの暴言に現れるフランスと日本の間の自国の文化に対する"想いの違い"やそして自国の文化を具体的にどう扱っているのかの違いをあらためて考えさせれます。
招待客に背を向けて話す尊大無礼、決めつけの口調と難解を装った語彙をもって、石原は、展覧会そのものをこっぴどくやっつける。たった今、案内付きで鑑賞してきたばかりの展示がよほど退屈だったのだろう。「今日ここに来て、なにかすごいものが見られるんだろうと思っていました。ところが、実際は何も見るべきものはなかった。」
見るべきものがあるかどうかという問題と、実際に文化として存在しているものを美術館にアーカイブするかどうかという問題は異なる問題だ。
その存在に価値を見出せるか、それが存在したこと自体を記録、アーカイブ化することに価値を見出すか、その違いを石原都知事は理解しているのだろうか?
例えば、原爆が落ちた(あるいは、落としたでもいい)ことそのものは負の価値しかなだろうが、それを記録としてとどめておくことには大きな価値があるのと同じように。
忘れることと二度と見れなくなることは異なるはずだ。
ローレンス・レッシグは著書『FREE CULTURE』の中で、アメリカの古い映画(特にB級もの)が複雑に絡み合った著作権の関係で、アーカイブすることもできず、倉庫の中でフィルムが物理的に朽ち果てていくことを黙って眺めているしかない状況を嘆いてみせた。
著作権の問題は、作者の生活とも大きく関わる問題でもあり、フランスのINAのような形がうまく機能しているのかはよくわからない。
しかし、文化の保存、未来の文化を育てるための資料という意味で非常に評価できる試みなのではないだろうか?
そして、それは「オープンソース」や「データは次世代のインテルインサイド」といわれるようなWeb2.0的時代の価値観ともあっているような気がする。
情報そのものが価値をもつ時代。自国の情報をアーカイブすることで自国の価値をマネジメントする姿勢は、見習うべきところが多いんではないかという気がした。
INA Archives pour tous:http://www.ina.fr/archivespourtous/index.php
カルティエ現代美術財団コレクション展:http://www.mot-art-museum.jp/kikaku/74/
(参考)ソフトがタダになる時代:たけくまメモ:http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_5c98.html
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