でも、それがバットのような物理的な道具ではなく、手法や考え方みたいなものが相手だと、途端に、この当り前がわからなくなる人がいます。
バットの振り方がわかっても、相変わらずヒットやホームランが打てないことは理解できるのに、手法の使い方を知るだけでは結果が出ないということがわからない。
いやいや、それ以前に、バットが野球に密接に結びついた道具で、ほとんどそれ以外の用途がないことが理解でき、かつバットをつかうには野球のことも知らないといけないことはわかるのに、ある手法を知る際にそれが使われる場について理解することが大事であることがわからなかったりします。
こう書くと、おかしさはわかってもらえると思いますが、案外、そういうことって多いはずです。
ある手法の説明を聞いて、「わからない」とか思ったときは、それは手法(バット)について、わからないのではなく、実際はそれがなぜ、どのような場(野球)で使われるのかがわからないし、わかろうとも思ってないからです。それが手法の説明がわからない理由だと思ったほうがいいと思います。
バットを持ったまま、守備につくような…
ところで、バットを手にしている限り、できないことがあるということも同時に知っておいたほうがいいでしょう。バットは野球の道具ですが、バットを手にしている限り、守備に関しては、どうにもならないでしょうから。
誰も、バットを持ったまま、守備にはつかないでしょ。
でも、これが形の見えない守備機会(つまり、ある手法を使う不適切な機会)とかだと平気で、バット(不適合な手法)を持ったまま、守備につくようなことをしてしまうんですよね。困ったもんです。
道具や手法は、ある場での人間の可能性を拡張してくれると同時に衰退させます。
バットなら素手でボールを打つよりもヒットの可能性を高めると同時に、それを手にした状態では守備が成功する可能性を決定的に低くします。
同様に、ある手法、ある考え方は、必ず人気の可能性を拡張する方向と衰退する方向の両方に働くことは理解しておくべきでしょう。
つまりは、ある状況でのモノの見方や価値観、能力は常に、その時に利用している(利用していると意識できてるかどうかは問題ではありません)道具、ようするにメディアによる影響を受けるということです。プラスの方向にも、マイナスの方向にも。そして、プラスかマイナスかの判断を行う価値観さえも変える。極論すれば、よく聞く価値観の違いって、どのバットを使ってるかの違いであって、性格とかの違いとか世代の違いとかいうように情緒的に捉える必要はないと思ってます。バットを持ってる人とラケットを持ってる人では試合にならないように、価値観の違いで争うなら本来は同じ道具を手にして同じグラウンドに立たないと意味のある話ができるわけないんですね。
ちょっと脱線しましたが、そういうことがバットをはじめとするメディアの力、メッセージです。
ことば、文字、数字、貨幣、道路、衣服や建物なども含めて。
まあ、そもそも人間の手をもつ限り、四つ脚でサバンナを駆け巡ることはできない訳ですが。
問題は、人は自分がどんな見えないバットを持っているかを知らないし、そのバットをもつことで自分がどう変わったかを理解することを長い間してこなかったということです。
そのあたりがマクルーハンのメディア論が取り組んだことです。つまりはメディア論はバット論なわけです。
そんなことも含めて、スキルの取得やモノの見方、学習やデザート可能性みたいなものを見つめ直すのがよいかと。
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