変化するリテラシー(Web2.0とパーソナル・ファブリケーション)

それがどんなに優れた、新しい先端科学技術を駆使した商品、サービスであっても、それが商品、サービス提供者の押し付けがましい形で提供されるものならいらない。
そんな時代が明らかに近づいている。

まずはそれはWeb2.0と呼ばれるビット(情報)の領域で、現実になりつつある。
それがこれまでどおりのWebページであろうが、メールであろうが、わりと最近新しく登場したRSSやAtomなどのFeedの形式をとろうが、情報提供者から押し付けがましく発信されるものに、ユーザーの一部(それは決して少ない数を占める)はすでに相当辟易している。
もちろん、インターネット以外のTVや新聞、雑誌などでも同様で、情報需要側にメリットがないものは受け入れることなく、却下される。
かつてなら、そうした情報を受け入れなくては情報そのものが不足していた状況だった。しかし、状況はもはや一変し、メディアや企業が発信する情報に頼らずとも、その一次情報からユーザーサイドからみて好ましくない部分を見事にそぎ落としてくれた他のユーザーが発信する情報を受け取ることで、何の不自由もなく情報の摂取が可能になってきている。

ユーザーの声が力を持つようになれば、企業も当然、その声を無視するのが段々と困難になってくる。賢い企業はユーザーの声に耳を貸し、一見無茶だと思う声にも決して不快を露わにしたりすることなく、どうにかユーザーの声に応えようと努力する。
もちろん、それはいまに始まったことではない。
マーケティングという言葉とともにそうした企業活動は当の昔にはじまっている。
自動車はもはやT型フォード一台ではない。ユーザーの好みに合わせた多種多様な車種が存在し、マスカスタマイゼーションにも対応している。
これはWebの世界でいえば、ブログパーツや公開APIを使ったマッシュアップに相当する。Web2.0でいわれるマッシュアップの一部はすでにマスカスタマイゼーションという形でアトム的ビジネスモデルを展開する企業でも採用しているといえるかもしれない。

ここで重要なのは、ユーザーのリテラシーだ。
読み書きができるレベルのリテラシーのユーザーと、HTMLやCSSがいじれるレベルのリテラシー、そして、公開APIを使って自分自身のWebサービスをつくれるレベルのリテラシーでは、個人的に可能なレベルが当然ながら異なってくる。
一概には言い切れないと思うが、リテラシーが高いほうが自分の好きなことができて楽しいんじゃないかと思う。
それは自動車のカスタマイズでも同じかもしれない。

しかし、マスカスタマイゼーションでは、まだ生産の主導権は企業側にある。
それは情報の生産が個人と企業(Googleなどの特殊な企業を除けば)でほぼ同等のレベルにまで達しようとしているのに比べれば、やや物足りない。

しかし、昨夜のエントリーで紹介した『ものづくり革命 パーソナル・ファブリケーションの夜明け』(ニール・ガーシェンフェルド著)で紹介されるパーソナル・ファブリケーションが一般の人にも手が届くようになれば、この状況も一変するだろう。

現在「リテラシー」は「読み書き能力」という狭い意味でしか一般に理解されていないが、ルネサンスの頃に誕生した当初、この言葉はあらゆる表現手段を駆使する能力という、今よりずっと広い意味を持っていた。しかし、その後、物理的なものづくりは、商業的な利潤を追求する「非リベラルアート(一般教養にあらざるもの)」として、リテラシーの定義から外されてしまった。
ニール・ガーシェンフェルド『ものづくり革命 パーソナル・ファブリケーションの夜明け』

ミケランジェロやレオナルド・ダ・ビンチが活躍したルネサンスの時代。
それまでのギルドに属する職人として働く絵描きは、自身の創造性を発揮することなく教会が指定した細かい仕様に基づき絵画を作成するという意味において、教会そのものをつくる大工と変わりなかった。
しかし、その後、より複雑で大きな作品を制作するために、技術の細分化と工房の規模の拡大が起こった際、ギルド制度は崩壊し、その後の工場につながるような工房と、新たに登場した「顧客」に向けて個人で絵画を制作する芸術家への二分した。

フェレンツェのメジチ家を代表とする商人、市長などの有力者、啓蒙思想が普及する前の君主を中心とする後援者のコミュニティが出現し、教会ではなく、個人のために、個人から芸術作品を買うようになった。ミケランジェロやレオナルド・ダ・ビンチは、徒弟として制作活動を始めたが、結局評価されたのは、職業的な生産性ではなく、個人的な表現力だった。レオナルド・ダ・ビンチは、最終的に自分一人のために仕事をするようになった。
ニール・ガーシェンフェルド『ものづくり革命 パーソナル・ファブリケーションの夜明け』

村上隆時代の終わり、日本アート空白の時代の再来」のエントリーで、村上隆が過去の人になったと宣言したのも、彼のアートが意味をもったオタクの世界も一般化し(参考:「Life is beautiful: 本当に生活の一部になると言及されなくなる」)、その価値の源泉となる土台を失ったと考えるからだが、そこで一般化したのは「表現」あるいは「リテラシー」である。
それはすでに書いたように、普通の人がブログやSNSを使って情報発信=表現もできれば、すこしリテラシーの高い人なら公開APIを使って、自らメディアをつくることができるようになったという意味においてだ。
それに比べると、オタクという特殊な人たちのみに表現が可能でなかった時代とは、すでに現実は大きく異なっている。
いまではダ・ビンチが「自分一人のために仕事をするようになった」のと同じように、それを仕事にするかどうかは別として表現ができるのだ。

そして、パーソナル・コンピュータからパーソナル・ファブリケーションへ、ビットからアトムへという動きが現実として見え隠れするようになり、その傾向はますます加速していくようだ。

先ほど、ユーザーの声を聞くことがマーケティングのはじまりとともに賢い企業の中で芽生えたといった旨を述べた。
しかし、ものづくりというリテラシーが再び個人の手に戻ったとき、マーケティングはいったい、どう変化するのだろう?

僕はマーケティング・サイエンス2.0をそうした意味でとらえてみたいと思う。

⇒ 変化するリテラシー#2(LEGOからゲーム機へ、そして、想像力の変化)

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