2010年12月08日

新しいことばのデザインパターンの追求

すこし時間があきましたが、前回書いた「版(version)の危機」の話の続きをしましょう。

前回は、電子書籍とさらにその先の時代を考えると、「大量生産」や「版」という概念が危機を迎えるのではないかという話をしました。活字印刷という、あらゆる機械生産に基礎をおく大量生産の原型が、電子書籍という形態によって危機を迎えるとともに、様々な物理的形態を持ったプロダクトがソフトウェア化するなかで、プロダクト自体の生産が機械生産による大量生産とは異なるものになってきています。

マクルーハンは『メディア論―人間の拡張の諸相』のなかで、"同じ物"という僕らが当たり前と思って過ごしている概念に、こんなエピソードを紹介しています。

マーガレット・ミードが報告しているところによると、同じ書物を太平洋のある島に持っていったら、大変な興奮を生じたという。現地人たちは本を見てはいたのだが、それぞれ一冊しか見ていなくて、その一冊一冊がみな違うものだと考えていたのである。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

「大量生産」という概念を当たり前に思っている僕らは、ある本が世の中に複数存在するのを当たり前のことだと思っていますが、活字文化を取り入れていない人びとにとっては、それは興奮の対象です。
ただ、いまの電子書籍化やプロダクトのソフトウェア化に向かう傾向は、僕らを再び「現地人たち」に似た概念をもった社会へと移行させているように思います。つまり、「同じ物」が存在することが当たり前でない社会へ。個々人がカスタマイズされた無数の版が存在することで、版を管理すること自体がそもそも無意味であるような社会へ、と。

「所有」や「個人」という概念の変化

そう。個々の森の木々をバージョン管理しないように、電子的にカスタマイズされた異なるバージョンはもはや管理する意味がなくなっていくのではないかと思われます。

もちろん、その際には「オリジナル」という概念も、「著作者」という概念も変わらざるを得ない。「所有」や「所有者」という概念もしかりです。
いや、そもそも「著作者」や「所有者」となりうる「個人」という概念も変わらざるをえないでしょう。

以前に紹介した『近代文化史入門 超英文学講義 』書評)という本のなかで、高山宏さんが「日記は昔からあったと考える人が多いが、人は昔から一日単位で生きているという自覚を持っていたわけではない」と指摘していることを、すこし前の「アーカイブされるものと流れて消えるもの」というエントリーで紹介しました。また、同時に「印刷術のおかげで、聖書を一人一人が自分の個室で読めるようになった」ことにより、ピューリタンが「儀式と教会の空間はナンセンスだ。あんなものは、共同体の幻想にすぎない」という基本思想を持つようになったことも紹介しています。

マクルーハンも指摘していることですが、活字文化というのは、古来の共同体的社会を解体し、個人を生み出す力をもっています。聖書を個々人が所有し個室で読めるようになることで、境界での儀式という共同体的な生活様式は失われ、個人が個室に、部屋それぞれに配置されたテーブルの上に所有物を並べはじめることになります。
高山さんが、

ピューリタンはデータが好きだ。「つくられたもの」という意味しかない「ファクト(fact)」という言葉が「事実」という意味になった1630年代から、ピューリタニズムは、データを集積すればリアリティに近づくという思い込みになってあらわれる。つまり、日々のデータを累積することを考え始めた。

というときの「データの蓄積」が可能になったのは、それこそ、マーガレット・ミードが報告している、複数の同じ本に興奮を覚える「現地人」とは異なり、ピューリタンたちがすでに大量生産による「同じ物」の個々人での「所有」という概念を経験的に学習し終えた活字文化の人間となっていたからこそであったと言えるでしょう。
活字印刷という「同じ物」の所有・蓄積が可能とし、それを蓄積することで「リアリティ」をもった日記が書くことができるようにし、それにより個室という物理的な個人の部屋と、内面という精神的な個人の居室が同時に成立するような、そんな人間の拡張が、いわゆるグーテンベルク革命の時代には起こったということでしょう。

電子書籍の内容は印刷された本である

ところで、僕らが考えなくてはいけないのは、この電子書籍とその先の時代に、こうしたグーテンベルク革命を通じて生まれた「所有」や「事実」や「オリジナル」や「個人」といった概念が、新たなメディアの創出にともない、どのように変化=拡張していくのかということではないでしょうか?

メディアはメッセージである」で紹介したように、マクルーハンは、ほとんどの「新しいメディアの内容が古いメディアである」ことを指摘しています。

例えば、先のような人間やその社会への大きな概念拡張を生み出したグーテンベルク革命でさえも、当時の人びとには、その意味が正確に理解できていなかったことを、次のような形で紹介しています。

実際、活字による印刷がおこなわれるようになって、最初の2世紀は、新しい書物を読んだり書いたりしなければならないという必要よりは、古代および中世の書物を見たいという欲求のほうに、むしろ動機があった。1700年にいたるまで、印刷された書物の50%以上が古代あるいは中世の書物であった。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

活字印刷が生まれて200年もの間、それはすでに写本という形で存在、流通していた本をひたすら活字印刷することに集中していたというのです。

これは、どこか現在の電子書籍を取り巻く状況に似ていないでしょうか? 電子書籍の議論をする際に、これまでの紙のメディアとして存在した書籍や雑誌、通販カタログなどをデジタルに置き換えることを、無意識のうちに前提として話を進めていないでしょうか? 
もちろん、置き換えることで、これまでの印刷された書籍にはない機能が追加される想定は現在でも行なわれています。ただし、やはりそれは「新しいメディアの内容が古いメディアである」というマクルーハンの言葉どおり、古い印刷物を内容として取り込んだメディアである以上の物ではなく、新しい表現や新しいコミュニケーションをするための新しいデザインパターンや表現形式の模索には至っていないのが今の時期でしょう。

エクスペリエンスの時代

もちろん、新しいメディアの本質を捉えるのはむずかしい。マクルーハンが紹介している蓄音機の誕生時の受け止め方などは、まさにそのことを示しています。

はじめ蓄音機がどんなに的はずれな受け止め方をされていたかは、ブラスバンドの主宰者であり作曲家であるジョン・フィリップ・スーザの発言によく表れている。彼はこんな意見を述べている。「蓄音機が出てきたことで、声の訓練はすたれてしまうでしょう! そうなったら、国民の喉はどうなります。弱くならないでしょうか。国民の胸はどうなります。縮んで、肺活量が減ってしまわないでしょうか。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

スーザは、蓄音機を声の拡張、増幅として捉えたがゆえに、それを車が歩行者の活動である歩くことの力を減少させたのと同様に、喉や肺の力の減少へと至るだろうと考えたのでした。いまの僕らはこれを笑うかもしれませんが、将来、同じように電子書籍の捉え方を笑われることになるでしょう。

18世紀半ば、イギリスでは「エクスペリエンス」という言葉がキーワードになったと高山宏さんは言っています。
この時代、長くヨーロッパで続いた戦乱の時代が終わって平和な社会が実現されると同時に、道路と運河のネットワークが拡張されました。それと同時に、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』や、スウィフトの『ガリバー旅行記』などの、旅や放浪を通じて世界の様々なモノや出来事を経験するストーリーからなる新しい文学形式であるピカレスク・ロマンが生まれています。前にも紹介したとおりで、デフォーは小説家ではなく、イギリス最初期の新聞の編集者・ジャーナリストで、ロンドンのシティー地区の大商人でした。NewsとNovelはいずれも新しさを扱うジャンルというだけで新聞と小説に区別がない時代でした。「ファクト(fact)」という言葉が「事実」となっても、その「事実」はいまだfictionとnonfictionを隔てるものではなかったのです。

さらに、デフォーやスウィフトの著作の数年後の1728年には、世界ではじめてのアルファベット順の索引をもつイーフリアム・チェンバーズによる百科事典『サイクロペディア』が出ます。この百科事典は、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』が小説という表現をとりながら、書かれた内容は魚の釣り方、その釣り針の作り方、穴の掘り方、屋根の作り方というきわめて実践的な知識を扱ったのと同様に、学者の知を集めたものではなく実践の知を集めたものとなっていました。

そう。エクスペリエンスの時代です。ただし、そのエクスペリエンスは具体的な実践以上に、ようやく活字印刷メディアを使った新しい表現として生まれてきたピカレスク・ロマンや百科事典という文字メディアを中心に展開したのです。

このこともまた「エクスペリエンス」や実践的な知としての「ライフハック」などがもてはやされる時代に似ていないでしょうか? それが文字メディアを中心にもてはやされているというところも含めて。

新しいことばのデザインパターンの追求

『アンビエント・ファインダビリティ ―ウェブ、検索、そしてコミュニケーションをめぐる旅』書評)の著者としても知られるピーター・モービルは、最近翻訳された著書『検索と発見のためのデザイン―エクスペリエンスの未来へ』のなかで、こんなことを言っています。

検索と発見を目的とするアプリケーションのデザイナーとして、僕らはこれからの学習やリテラシーのあり方を決めることになる。

マクルーハンがいうように「すべてのメディアは人間の機能および感覚を拡張したものである」としたら、メディアを新しく創造すること、新たなデザインパターンを新たなメディアと言う形で実現することは、人間そのものの機能や感覚のパターンを変更し、これまでの概念を衰退させたり新しい概念を生み出したりすることに直結します。その意味で、上で引用したモービルの言葉は、きわめて正しいと感じます。検索や発見を目的としたアプリケーションを新たにデザインするということは、人間の学習や読み書き能力そのものを新たにデザインしなおすこと、再教育することに他ならないのだということを、モービルのように認識している人はどのくらいいるでしょう?

新しく、ことばに関するデザインパターンや、情報というものに関するデザインパターンを追求していくことは、それそのものが人間の学習や生活行動様式、社会そのものの価値観や行動パターンを変更することにつながるのです。もちろん、それは単純に新しいメディアのコンテンツとして古いメディアを押し込むだけではなく、デフォーやスウィフトやチェンバースがやったように新しいメディアに合ったコンテンツ=デザインパターンを開発することによってのみ、実現されることだとしても。

いずれにせよ、文字が印刷メディアという制約から解放されたものの、それをデザインする僕らはいまだ印刷メディアという古くからある制約に閉じこめられたままです。電子書籍云々以前に、もう何年もWebを使っているというのに。

いまこそ、新しいことばのデザインパターンの追求をはじめる時期ではないでしょうか。

  

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posted by HIROKI tanahashi at 22:14 | TrackBack(0) | 情報社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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