feedpathの「朝日新聞社とのW杯記事のFeed配信の実証実験」について

しかし、プロのアメフトのプレーヤーなら「敢えて書く」ことはないだろう。
そして、もちろん、スティブ・ジョブスにいたっては「ユーザー側の論理」などという言い方を持ち出して、こんなことは書かないはずだ。
しかし、敢えて書くが、そんなことは百も承知の上だ。
なぜなら実際の世の中では、権利関係が複雑に絡み、ユーザー側の論理だけで話が進むことはない。ありとあらゆることに配慮しつつ、少しずつでも前に進む、気の遠くなるほどの努力が必要なのである。今回の実験においても前例がない中で、関係者全員が常ならぬ努力と工夫をもってようやくたどり着いた一つの方法であり、ベストであるとは言えないが、とにかくベターな途を模索しての結果である。アメリカンフットボールのように、倒されても倒されても、とにかく1 ヤードずつでも前に進む努力を繰り返すことこそが、このゲームのルールであると僕は思っている。

もちろん、いまfeedpathで行われているような実験を実施するのに、大変な苦労があることは、なんとなくは想像できる。そして、上記で書かれているような1ヤードずつ進む努力が大切なこともわかる。それに尽力していただいていることは素晴らしいと思う。
しかし、その努力を語るのに「理想を語るのはいいが、自分では何もせずに権利を主張することだけでは現実は変わらないだろう」と言い方で、「批判的なエントリーをするBlogも散見される」ことと結び付けてしまうことは、「プロ」のビジネスマンとしていかがなものかと、1ユーザーの目からは感じてしまいます。

ビジネス、つまり、商品やサービスの提供によりお金を稼ぐことを生業としている場合、そのお金を払ってサービスを受けている人が誰なのかを忘れてはならないはずだが、ここではちょっとだけそれが忘れられているような気がするのです。
それはこのエントリーに書かれている内容だけで、そう思うんじゃなくて、feedpathの画面にここで言及されている「朝日新聞社とのW杯記事のFeed配信の実証実験」のスペースが登場した際に直感的に感じたことだ(「最初の2秒」の「なんとなく」が正しかったりする)。

「オープンソースを使ったりAPIを公開したとしても、全てをさらけ出せるわけではないのだ」。
そのとおり。
そして、何よりさらけ出さなくていいのは、むしろ、こうした努力をやっていますということをこういう形で言明すること自体ではないのだろうか?
それでは、せっかくの努力がユーザーの幻滅につながってしまい、もったいないと思います。せっかくがんばっているのに、それでは一緒に努力しているスタッフもむくわれないのではないでしょうか?

それに、きっと努力をちゃんとわかってくれる人もいるはずです。
努力したことの素晴らしさは自身で語らなくても、それを感じてくれた人がちゃんと語ってくれるはずです。
それこそ、Web2.0で重要な「ユーザーを信頼する」ことではないでしょうか。
1ヤードずつでも前に進む努力をするときに焦ってしまうと、応援してくれている観客の歓声も耳に入らなくなり、逆に野次ばかりが耳にはいってしまうのかもしれません。

でも、feedpathにはがんばってもらいたいと思います。

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