2006年04月26日

村上隆時代の終わり、日本アート空白の時代の再来

さて、そろそろ真面目に批評を書いておこう。

今回の件で露呈したのは、村上隆のアートがもはや時代遅れになってしまったという事実なのではないかと思っている。

東浩紀さんが簡潔にまとめているように、村上氏のアートは現代を映し出しているという意味において、はじめてアートとして有効に機能してきたといえます。

村上氏の美術活動の中心は、現代社会を満たしている商業主義的アイコンを借用し、パロディ化し、価値転倒を行うことにあります(と書くと左翼っぽいですが、現代美術はもともとそんなものです)。その戦略はアンディ・ウォーホルのオタク版アップデートとでも言ったもので、いままではおおむね有効に機能してきました。

しかし、村上氏が図らずもこう述べています。
「DOB君」の世界観は誕生させて10数年, ゆっくりと育てて来たものです。

そうなんです。DOB君は10数年前に誕生した作品です。
そして、それは「ゆっくり育て」られてきたものです。
この時点で時代遅れになる可能性があったということはできないでしょうか?

「10数年」といえば、社会は大きく変化したといえます。

Googleはまだ創業していませんでしたし、Yahoo!も創業したかどうかというところです。
当然、インターネットはまだ芽生えたばかりで、Windowsもまだ3.1でした。
ヒトゲノムもまだ解析されていませんでしたし、情報理論の創始者クロード・シャノンもまだ生きていました
東西ドイツは統一されたばかり(1990年)で、EUが発足したのも1993年です。
平成にもなったばかりでした(1990年が元年)。

その間、オタクは日陰の存在から、国内はもちろん海外でも通じる表舞台に立ちました。
同じようにジャパニメーションという言葉があるほどで、日本のアニメは海外でも当たり前のように受け入れられるようになりました。
そこに村上氏の貢献があったことは間違いありません。
しかし、それは過去の話で、アニメもオタクもメジャーデビューした今、アートに何ができるかというと甚だ疑問があります。
アニメやオタクはもはや空気のような存在で、むしろ、ウィルスのように世間に蔓延しているのは、Web2.0を含む新たな情報社会の到来だったりするのではないでしょうか?

村上氏のアートに限らず、アートの歴史はその時代時代の最先端の社会の動きを、毒素を含んだ形で作品として「見える化」することで、機能してきました。

村上隆氏の著作権侵害訴訟の和解に関して」のエントリで言及し、最近、小説や映画でも再び脚光を集めているダ・ヴィンチであれ、写真や印刷技術が発展した時代の印象派の画家たちであれ、便器を美術館に持ち込んだデュシャンであれ、大量生産時代のウォーホルであれ、常に時代の先端をその作品の上に鏡のように映し出すことで、単に美術愛好家の狭い範囲にとどまらない、より広範囲にわたって社会的な価値を有していたのだといえます。

同じことはウォーホル以降の文脈で、まさに大量生産へのカウンター・カルチャーでもあったオタクを取り上げ、それをアートに昇華した意味で、村上氏の作品は大きな価値を持っていたと思います。
ですので、今回のナルミヤ・インターナショナルとの訴訟の件で、DOB君がマウス君より無名だの、元ネタがミッキーマウスだろと安直な批判を繰り返す人たちの意見は、まったくもって批判になっていないとも思います。

しかし、問題は今回の訴訟の反応として、アニメやオタクが表舞台に上がって堂々としているのを自明なこととして日々を過ごしている普通の人から、そうした反応がこれまた当たり前のこととして出てくることを、アーティストを名乗る村上氏が予測できなかった点にあります。
それはもはや現代という時代を感じる感性を喪失したアーティストの姿のようにしか思えません。

今回、そもそも上記のような意味合いで村上氏のアートがすでに賞味期限切れで注目度が低かったこと、東氏以外のアートに少しでも関わる批評家やメディア関係者の反応がいまだに出ていないというアート業界そのもののもつ時代錯誤も手伝い、数としてはそれほど多くはなかったものの、それでも、敏感に反応したブロガーがいて、それがウイルスのように感染したこと。
時代はそうした現象を生み出すのに十分な環境として立ち上がっていて、それはWeb2.0という言葉を知っているものなら誰もが当たり前に感じ取っている、大量生産だとか、マスメディアだとか、そうしたものが草の根的メディアに脅かされつつあるという現代の情報社会というものに対する感性を、アートを名乗るものとしては哀しすぎるほど欠いていて、「村上隆の時代の終わり」を告げる象徴的な出来事として感じられました。

もはや、そう感じるのが遅すぎるくらいで、もしかしたら、それを認めることへのちょっとした拒否感が、これまでのエントリーに書いてきたような違和感やむかつきの本当の原因だったのかもしれないと思います。
しかし、今回の件が起こらずとも、少し前のエントリー「ビジュアルデザインと情報デザイン、科学技術とアートデザイン」ですでに書いていた内容を思えば、もはや自分が村上氏のアートを過去のアートとして扱うのは当然のことだったでしょう。

とはいえ、終わったものは終わったことでいいんです。
ようは、そのことでまたもや日本のアートシーンに空白が生じたことのほうが真の痛手なのかもしれません。

関連エントリー


posted by HIROKI tanahashi at 22:32| Comment(2) | TrackBack(0) | アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
正直今大学に通ってる
僕ら若い世代にとっては、
村上さん、またはその周辺の方々が作り出すイメージは
もう一括りのものとして扱われていて、
ちょっと古い感じがありますね。

また、この人に求心力を感じないのは、
言葉をすべて自分を守るためにしか使えてないからです。
Posted by YK at 2007年09月21日 19:55
Pixivとカオスラウンジや破滅ラウンジ等の村上党による、「承認してくれない」殆どのオタクに対するヘイトクライムで正体が露見した。
アーティストを自称して何でも表現していればアートになるという思い込みによって。
Posted by kurannti at 2014年03月08日 00:36
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/17077215
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック