そう。「版(version)」という概念が危機を迎えているのです。出版は言うに及ばず、そのほか、オリジナルの型を複製する大量生産により富を生み出すという仕組み自体が危機を迎えているのが現在なのではないかと感じます。
世界はどんどんオリジナルとコピーという区別が意味をなさなくなる時代に進もうとしています。
マクルーハンは『メディア論―人間の拡張の諸相』で「活字による印刷は複雑な手工芸木版を最初に機械化したものであり、その後のいっさいの機械化の原型となった」と言っています。
つまり、活字印刷というのは機械生産を基礎におく大量生産の原型でもあるというわけです。
この言葉を、現在の電子書籍とさらにその先のWebも電子書籍の境もない時代にあらためて捉え直してみたら、冒頭の気づきに至った訳です。
この先、著作を書くという行為に終わりはあるのか?
まず最初に思ったのは、電子書籍とさらにその先の時代において、これまで書籍の著者であった人たちは、長く続いた紙の書籍の時代同様に、著作を書き終えることができるのだろうかということでした。たとえば、僕自身が今後著者としてありえるなら、著作を書き終えるということはどんどんむずかしくなるのではないかと感じます。一冊の著作として書き終えるのではなく、もしかすると恒常的に記述を書き換え、更新し続けたくなるのではないか、と。すでに書籍として存在する2冊の著作に対してもそう思いますし、このブログを書き続けていることを考えると、この先、書籍とWebの垣根が融解していく流れのなかで出版に際した締め切りに向けて書籍の原稿を書き終えるということの意味合いは大きく変わってくるのではないかと思うのです。
それは書籍という物理的な形態、そして、その形態が同じものを複数生産・流通することを可能にする大量生産の制約がもたらしていた、版(version)という概念の危機でもあるのではないかと思います。
おしゃべりに版はない
「アーカイブされるものと流れて消えるもの」で書きましたが、Twitter上で展開されるコミュニケーションは、書籍的な意味での書くという行為とはすでに違っているように思います。TwitterのTL上に流れる言葉は、書かれた言葉というより、おしゃべりのようです。それは蓄積されることをあまり意図することなく、時間のなかで響き渡っては消えていく音声のようです。ブログはまだ書籍の文章に似ていました。けれど、Twitterのことばにはもはや複製可能性を前提にした版の制作という意味合いはほとんどありません。それは日常生活でのおしゃべりや、個々人の間で行われる手書きの手紙や携帯電話でのメールに近いものになっていないでしょうか。そのコミュニケーションは、その発話なり記述がそのままの形で残り、複製されていくことをあまり想定していません。他愛もないおしゃべりがTwitterのことばのひとつの特徴でしょう。
もちろん、Twitterやメールなど、デジタルな情報をサーバーやネットワークを介してやりとりするには、その間に繰り返し複製が行われます。ただ、それはあくまで通信のための複製であって、モノを物理的に輸送するのを肩代わりする別の方法というだけでしょう。同じものを万人に行き渡らせるという大量生産の複製とは意味合いが違うようです。
現代の琵琶法師たち
ソーシャルなメディアであるTwitterに関しては、複製によって同じものを個々人に同じように行き渡らせるという意味合いより、ある場に集う複数人の人たちに、聞こえるように話すという意味合いだと捉えたほうが合っているように思います。かつての琵琶法師たちは物語を語り継ぐなかで、すこしずつ語る内容を変えました。意図して変えただけでなく変わってしまうこともあったでしょう。つまり定型の版をもたなかったわけです。
以前に紹介した加藤秀俊さんの本にも、こんな一文があります。
ここで注意しておかなければならないのはいま『平家物語』として知られていること不朽の名作が、もともと口頭で語られた「口承文学」であって、けっして文字による「読者」を想定した「文字文学」ではなかった、ということだ。(中略)元来、この「物語」は口話によって聴衆のまえで語られるものなのであった。われわれ文字本位の社会に生きている人間には想像することがむずかしくなっているが、ついこのあいだまでの日本社会では、こうした「語り物」を耳できいて知識を獲得し、また、それをたのしみとしていたひとびとが人口の大部分だったのである。
書物としての『平家物語』にはさまざまな異本があるといいます。しかし、それがもともと民間説話や武勇伝として口話として語られていたものを編纂したものだとすれば、異本があっても不思議ではありません。むしろ、現在、決定稿とされるもの自体が、そうした異本や元の民間説話から生まれたものであって、全くオリジナルという意味はもちません。
同時に、平家に対する鎮魂の目的で僧侶たちによって語られた『平家物語』の無数の原型は、その型を洗練させていきながら民衆に愛される芸能となったといいます。その時、僧侶は平家語りを専門とする演奏家集団に成長しはじめました。その名を當道座(とうどうざ)というそうです。
そうした口承の時代と同様に、これからのコミュニケーションや情報コンテンツは、版というものをもたずに、永遠に更新され続けるものへと変化していきはしないだろうか?と思うのです。
印刷という大量生産の手法を離れ、ブログやTwitter同様にいつでも書き換え、更新が可能な形態に近づいていくいま、書籍というのは、ますますおしゃべりとか琵琶法師の弾き語りに近づくのではないか、と感じるのです。決定稿としての汗をもたず、絶えず様々な人によって語り変えられる口承的=おしゃべり的な文学。僕らは琵琶をモバイルに持ち替えた弾き語りの旅人ではないでしょうか。
版とデザイン
さて、重要なことは、この話の標的は何も書籍だけではないということです。冒頭のマクルーハンのことばを思い起こしてみてください。マクルーハンは印刷を大量生産の雛形と捉えました。それを思い出すとき、書籍における版の危機は、そのまま大量生産的な物事の危機ではないかと思うのです。
マクルーハンは、自動車を「機械の時代の晩期の生産品」とした上で、「車は画一化と規格化のメカニズムの傑作であって、世界ではじめて階級のない社会を生み出したグーテンベルクの技術および文字文化と一体をなしている」と言っています。
T型フォードを頂点に、自動車はその後、画一化や規格化から離れ、様々なモデルで差別化する方向に走りました。それでも、スタイルは違ってもベースになっている機械的なモデルは同一の車種が多いように、基本的にはマクルーハンがいうように「機械の時代」の生産物だと言えるでしょう。
とは言え、スタイルの違いが求められるように、社会は自動車に対して、大量生産的な方向とは別の方向を期待しています。マクルーハン的にいえば、それは「電気の時代」の特徴です。
車を一も二もなく地位の象徴として受け入れ、その発展した車種を高い地位の人間の使用のみに制限しようとするのは、車および機械の時代のあかしではなく、この画一化と規格化の時代に終止符を打って、地位と役割という規範をふたたびつくりつつある電気の力の現われというべきである。マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』
画一化と規格化の反対には、特定の版をもたない都度生産があります。
それは民間説話を編纂して生み出される無数の『平家物語』のようなものでしょう。
建築物やシステムの設計などはそれに近いのかもしれません。それらも機械的に生産された素材を用いますが、最終的に生み出されるのは、ひとつの版ではありません(もちろん、版的な建築物もシステムもあります)。
すこしまえに「ソフトウェア化するプロダクト」というエントリーを書きましたが、これまでハードウェア的に提供されてきたプロダクトがハードウェア化=情報化するにつれて、それらもまた版をもたない形態に近づいていくのではないかと感じるのです。
そして、版をもたないものが増えるということは、明らかにデザインの意味が変わるということです。何より、デザインは大量生産とともに確立してきた技術なのですから。
琵琶法師のような語り継がれる文化の時代に、デザインとはどのような意味をもつものに変わっていくのでしょうか。
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