これはマーシャル・マクルーハンのメディア論の根幹をなす考えです。
マクルーハンがいうメディアは、いわゆる本や新聞、テレビやインターネットなどを指すだけでなく、言葉や数、道路や車輪、家や衣服を含めたすべての人工物を含みます。つまり、すべての人工物は人間の機能および感覚を拡張するとマクルーハンは考えているのです。
ここで着目すべきは、メディアが人間の機能および感覚の拡張であるとすれば、新たなメディアを使いはじめることで人間そのものが変化するということでしょう。
ずっと前に、このブログで「ものがひとつ増えれば世界が変わりうるのだということを想像できているか」と書きましたし、その考えを中心として、僕は『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』を書いたわけですが、まさにもの=人工物をひとつ増やすということは、人間自身を変化させ、その変化が必然的に人と世界の関係を変化させるのだということを理解することは、とても大事だと思います。
そう。人間中心デザインのプロセスが、なぜ循環型のプロセスとなっているかを根源的な意味で理解するためにも。
なぜなら、すべての人工物が「人間の機能および感覚の拡張」であるのだとすれば、あらゆるデザインは人間中心デザインが中心においている「人間」そのものをデザインの結果として拡張、変化させているのに他ならないわけですから。
失敗の改善は別の失敗を生み出す種を生む
この循環的な変化がもつ意味を想像できているでしょうか?『フォークの歯はなぜ四本になったか 実用品の進化論 』の著者ヘンリー・ペトロスキーも同じことに気づいていたはずです。僕はこの本が文庫化されるにあたって光栄にも解説を書かせていただいたのですが、その中でこんな風に書きました。
生物における進化がある時点での環境の変化への適応であるように、モノの進化もある特定の状況における問題を、とりあえず解決するための場当たり的な適応でしかない。それゆえ、ある状況に適応するための問題解決が別の状況においては新たな問題を生み出す可能性は常にある。右利きの人用に作られた製品が必ずしも左利きの人にとっては使い勝手がよいものではないように、いつでも誰にでも便利で使いやすい普遍的(ユニバーサル)なデザインなどというものはなく、モノは常に欠陥をもっているのだ。当然、そうした不完全なモノがいくら発明されようとも、僕らの生活が常によくなる方向に進むはずはない。著者の慧眼は「失敗こそがモノの形を生み出す」ということ自体が必然的にもつ、失敗の改善は別の失敗を生み出す種を生むというモノの進化のメタレベルの失敗を、事例を元に見事に浮かび上がらせた点だろう。ヘンリー・ペトロスキー『フォークの歯はなぜ四本になったか 実用品の進化論 』
解説「失敗の発明」より
「失敗の改善は別の失敗を生み出す種を生む」。この意味が想像できるでしょうか?
道路というメディアは人間をどう拡張したのか?
マクルーハンが言うように、あるメディアが新しく生まれれば、それは必ず人間の機能あるいは感覚を拡張するわけです。人間が道路と馬車(あるいは自動車)で、移動する機能である自身の足を拡張すれば、以前より確実に遠くまで「足を伸ばす」ことができるようになります。ところが、道路と馬車(あるいは自動車)がもたらす結果は、単に遠くまで行けるようになることだけでは治まりません。
例えば、マクルーハンは、こんな指摘をしています。
イギリスが郵便のために建設した道路は、大部分が新聞によって利用されるところとなった。交通量が急速に増加すると、鉄道ができ、それが道路よりももっと特殊化した形態の車輪をもたらした。いかなる新しいメディアも、それがものに速度を加えることで、共同体全体の生活と投資を混乱させる。戦争の技術をこれまで聞いたことがないほどに強烈なものに高めたのが鉄道であった。アメリカの南北戦争は鉄道によって戦われた最初の大戦争となり、それはまた大量流血のために鉄道を利用したことのないヨーロッパの軍人たちにとって研究と賛美の対象となったのであった。マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』
あるいは、またこんな指摘も。
都市は田園的様式の細分化によって作られた。この外へ向かっての爆発を放射状あるいは「中心−周縁」の形で表現したもの、また促進したもの、それが車輪と道路であった。中央集中主義は、道路と車輪によって接近できる周縁部がなれれば成立しない。海上権力はこの「中心−周縁」構造をとらないし、砂漠やステップ文化も同様である。こんにち、ジェットと電気の出現によって、都市の集中主義と専門主義はますます非専門的な形態を強めながら、社会機能を脱集中化し相互に作用させる方向に回帰している。マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』
次々と生まれる新しいメディアによって、世界が変化していく様が想像できるでしょうか?
「メディアはわれわれの身体および神経の組織を拡張したものであるから、新しい拡張が生まれればその都度、常に新しい平衡を求めざるをえない生化学的相互作用の世界を構成している」という観点こそが、マクルーハンが「グローバル・ヴィレッジ」という言葉で、この人間世界の相互作用的なダイナミズムを表現したことの背景にある考えなのでしょう。
メディアは感覚の比例関係を変える
僕がマクルーハンのメディア論に触れていて感じるのは、人工物をなにか自分たちの外にある対象のように捉える視点だけでは決定的に何かが不足しているのではないかということです。むしろ、新しい人工物を手にするということを、技能を習得するとか、歳を重ねるとかと同様に、自分の身体に密着したものであると捉える必要があるのではないかと感じるのです。マクルーハンはこんなことも書いています。
知力を使うことによって、われわれは外界を自己の存在組織に移し変えることができる。この転換の際に覚える喜びこそ、なぜ人びとが絶え間なく感覚を働かせることを喜びとしているのか、その理由説明となる。人間の感覚と機能を外的に拡張したもの、それが他ならぬメディアと呼ばれるものだが、われわれがそれを絶え間なく用いるのは目や耳を絶え間なく使うのと同じであり、動機も同じである。マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』
外界から何かを知覚するということとメディアを使うことは同じだというのです。それはその効果のみならず、動機においてもです。日常生活において自分の目や耳で世界を感じることと、新聞やテレビでニュースを知ることは変わらないし、グーグルで検索してい知識を得ることも、ツイッターのタイムラインを眺めて「へー」と思うことも、基本的には同じなのです。新聞もテレビもグーグルもツイッターも、人間の目や耳の拡張です。
ただし、目と耳で得る情報が人間にもたらす影響が異なるように、それぞれのメディアがもたらす影響も異なります。「自然から切り離された視覚空間で」で紹介したように、視覚だけが対象と捉えた「図」をそれを浮き立たせている「地」から切り離して孤立させます(「地」を存在しないと見なすことができる)。
その視覚の性質を受け継いだ書かれた言葉は、まるで言葉そのものがその対象となる事物が存在しなくても成り立ちうるような思考形式を可能にするということをマクルーハンは指摘し、文字文化をもった社会と口承文化の社会における圧倒的な違いを繰り返し例示しています。そのことに関しては「アーカイブされるものと流れて消えるもの」でも触れたので割愛しますが、機能や感覚の拡張であるメディアはそれぞれの性格によって、人間が感じる世界を大きく変える影響力があるということはしっかり認識しておく必要があるのではないかと感じます。
マクルーハン流にいえば、メディアは人間の感覚の比例関係を変えるのです。
マクルーハンはメディアがもたらす内容ではなく、その影響こそを捉えるべきだと主張し続けました。それが有名な「メディアはメッセージである」という言葉に込められた意味でしょう。
目を理解するのに、目で見た内容ばかりをあれこれ言っても埒があかないのは、誰でもわかります。なのに、目の拡張であるメディアである文字や書物を理解するのに何故か僕らはその内容について、あれこれ言いたがる。テレビやインターネットの影響についても同様で、影響を云々いう場合に、その内容がもたらす影響ばかりを議論しがちで、そのメディア自体が人間の機能や感覚をどのように変え、それにより衰退し、復活し、転換するものが何かを問うことをしません。
それでは、メディアについて理解しようとしていないのも同様です。メディア、つまり、人工物。それをなんらかの理由でデザインしたがる僕らがそれでいいんでしょうか?
その視点に立って考えると、僕らはまったく彼のメディア論を理解してこなかったのではないかと思えてきてしまいます。その無理解は、特に「人間中心ほにゃらら」などと得意がって主張している人にとっては、致命的な無知といえるのではないでしょうか? 自戒を込めてそう思います。
でも、まだこれからでも遅くないはずです。読みましょう。考えましょう。
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