ソフトウェア化するプロダクト

最近、会社のほうのブログコラムでは書いていることですが、いまの傾向として、これまで物理的なハードウェアとして提供されてきたものが、ディスプレイのなかのソフトウェアに変換されることが増えてくると考えられます。

カメラや音楽プレイヤー、テレビなどはすでにそうなっています。カーナビもハードウェアの形態から、ソフトウェアに移行しつつあります。そうした機器類以外にも、電子書籍や電子カタログなどもそう。無印良品のノートなどもそうですね。

ソフトウェア化するプロダクト

ようするに、元々が情報をコンテンツとして扱っていたハードウェアがソフトウェア化されて、iPhoneやiPadなどのプラットフォーム型の端末に統合されているわけです。音楽という情報コンテンツを扱う音楽プレイヤーが丸ごと情報化してソフトウェアになる。テレビという映像情報を扱っていたものがYouTubeとなる。

それはすでにパソコンの中に時計や電卓やカレンダーなどが取り込まれていた流れだとも言えます。そういうパソコンそのものがある意味では、iPhoneやiPadの一部になった感もある。

まさに「メディアはメッセージである」で書いたような、古いメディアが新しいメディアのコンテンツとなる、というようなことが起こっているのですが、ただし、それはかつてテレビが映画館をコンテンツとし、映画館は劇場をコンテンツにしてきた流れの中にあるものともいえます。情報を扱っていたもの限り、それは夢幻に繰り広げられる入れ子状の後続かもしれません。

一方でソフトウェア化されずに残るものもあります。これは元々、物理的なものを対象にしたハードウェアです。冷蔵庫しかり、洗濯機しかり。衣類や住居は微妙で、一方で物理的なものと残りながら、他方でアバターとして仮想化しています。

デザインの中で、対話的かつ認知的な文脈を作り出す必要性

こうしたハードウェアのソフトウェア化の進行に際して、何を考えなくてはいけないかというと、これまで物理的・身体的な制約を逆に利用することで製品の使い方をユーザーにアフォードしてきたデザインのアプローチを、対話的かつ認知的な意味の文脈をうまく作り出しながらユーザーの行動をアフォードするようなアプローチに変えていく必要が生じるということです。
物理的な不可能さを逆に利用して人の行動を誘導するようなことは、バーチュアルな世界では自然ではありません。もちろん、物理的なモティーフを使って制約を創り出すことは叶ですが、そこには認知の問題が必ず重なってきます。

相互作用的な対話を重視した意味論的なデザイン

これは当たり前ですが、インタラクティブで、いわゆる意味論的な領域における人間中心デザインの考え方や実践が必要になってきます。デザインされた要素の意味がどう認知され、それが対話的な操作の行動のなかで、ユーザーにどのような意味の文脈を作り出し、それはシステム側が想定している文脈と一致しうるか? そうした認知や理解の可能性を検証しながらユーザーとシステムとの対話を可能にするインターフェースを設計しないと、それはユーザーにとってアプリケーションとして成り立ち得ないかもしれない。

ユーザーの行動をそのものによって、同じ表現がまるで異なる意味をもつことなど当たり前に起こる。しかも、その誤解である意味を生み出したのが、そもそもデザインされたインタラクションのフローによることも少なくない。対話をデザインするというのはそういうことです。

まあ、このあたりは元々、ソフトウェアのデザイン、設計をされていた方には当たり前のことなのですが、プロダクトデザインの方には意外と不慣れな領域ではないかと思います。
プロダクトがソフトウェア化する流れがある中で、これまでソフトウェアの領域に閉じ込められていたインタラクションデザインの知見はますます重要になってきているように思います。



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