アーカイブされるものと流れて消えるもの

最近、TwitterのTLを眺めていて不思議に思うことがある。
Twitter上で語られる言葉というのは「書かれた言葉」というより「話された言葉」みたいだと感じるのだ。

内容がそうだというのではない。たわいのないおしゃべりのような内容だから「話された言葉」のように感じるのではない。
TL上を言葉が流れすぎていく、その様が「話された言葉」のように感じさせるのだ。

それと同時に、文字というのは目の前に残り続けるものだという当たり前のことにあらためて驚かされたりする。そこにある言葉。ずっと、そこにあるなんて、という驚きだ。

日常生活での会話のように、Twitter上の言葉は蓄積されることなく、僕の目の前を通り過ぎていく。文字という視覚的な表現を用いた言葉であるのに、それは音声という聴覚的表現による言葉のように、現れては消える。

もちろん、実際には、Twitter上の言葉はちゃんと保存され蓄積されている。蓄積されているのだから、あとで見返すことも当然できる。だが、何気なく使っている限りでは、Twitter上の言葉はTLの上に次々と現れては消える人びとの声のように感じられるのだ。

アーカイブされるもの、情報の並べ方

アーカイブされるものと、流れて消えていくものの違いは重要であるように思う。

例えば、同じ時系列で情報が更新されていくものでもブログ等は、Twitterと異なりアーカイブされる=蓄積されるという感じがする。いや、従来のWeb上のコンテンツのほとんどはアーカイブされる情報だ。だからこそ、検索されるし、インデックス化して整理される。

Web上のコンテンツに限らず、アーカイブされたものは、どれそれはどこにあるのかと場所的・空間的に探索される対象となる。だから、図書館や博物館、遠近法や樹形図、インデックス化や検索システムなどが必要となる。百科事典や辞書、商品カタログなども、モノや情報がアーカイブされているからこそ、その在処を指し示すものとして必要になるのだ。

情報のデザインに関わる人などは、ここでワーマンのLATCH(Location、Alphabet、Time、Category、Hierarcy)を思い起こすと良いだろう。

ピューリタンの日記とシェイクスピア演劇の活字化

ただし、情報の並べ方などが問題となるのは、情報が蓄積されるものとして捉えられていることが前提だ。話される言葉を並べようなどと考えるのは、議事録をとる役割の人くらいで、普通は相手が話すのに身を任せて耳を傾けるだけだ。

何より情報がアーカイブされるというのは決して当たり前のことではないということは知っておいた方がいい。情報を蓄積するということは、歴史的な人類の発見であって、はじめから人類が当たり前に行っていたことではないのだ。

例えば、高山宏さんは『近代文化史入門 超英文学講義』で、「日記は昔からあったと考える人が多いが、人は昔から一日単位で生きているという自覚を持っていたわけではない」という記述している。さらに、高山さんは、日記の登場をピューリタンの登場と関係づけて捉えており、英文学における途上を1660年代として、時代を特定している。

つまり、それは印刷術によって聖書を文字として読めるようになった時代である。それまで口にさえる言葉として耳にしていた聖書の言葉が、ひとりひとりが文字として所有できるようになった時代である。

ピューリタンの基本的な思想は「儀式と教会の空間はナンセンスだ。あんなものは、共同体の幻想にすぎない」というものだ。では一体何があるのか。印刷術のおかげで、聖書を一人一人が自分の個室で読めるようになった。

一人一人が文字として聖書の言葉を所有=蓄積し、読めるのであれば、教会での儀式のなかで現れては消えてゆく音としての言葉を聴きに行くことは「ナンセンス」に思えたのだろう。

この時代は同時にシェイクスピアの演劇が活字となって読めるようになった時代でもある。シェイクスピアが活字になったのは1623年のことだ。最後の作品である『テンペスト』の初演が1612年であり、シェイクスピア自身、1616年に没しているのだから、それはすでにシェイクスピア演劇の時代が終わったあとのことだ。それは活字として印刷されることで、あらためてアーカイブされたのである。

ファクトを蓄積する

話をピューリタンの日記に戻そう。高山さんはこうも書いている。

ピューリタンはデータが好きだ。「つくられたもの」という意味しかない「ファクト(fact)」という言葉が「事実」という意味になった1630年代から、ピューリタニズムは、データを集積すればリアリティに近づくという思い込みになってあらわれる。つまり、日々のデータを累積することを考え始めた。

この「つくられたもの」という意味であった「ファクト(fact)」という言葉が「事実」という意味を持ち始めたという点が面白い。

以前に紹介した本のなかでグレゴリー・クラークが1800年代の産業革命期に次のような考察を加えている。

この経済成長の圧倒的に大きな要因とは、「生産活動に関する社会の知識ストックを増大させることの投資」である。産業革命を理解する作業とは、1800年以前にこのような投資の実行や成功がなぜみられなかったのか、また1800年以降にこのような投資がなぜ一般化したのかを理解することなのだ。
グレゴリー・クラーク『10万年の世界経済史』

クラークは、産業革命が成立した条件として「生産活動に関する社会の知識ストックを増大させることの投資」することが社会的に認められるようになったことをあげているが、その「知識をストックする」ことに価値を見出す姿勢は17世紀のピューリタニズムにすでに「日記を書き溜めること」を通じて見えているのだ。

ニュースとノヴェル、本当とうそ

この時代に生まれた有名な小説家がいる。『ロビンソン・クルーソー』を書いたウィリアム・デフォーである。デフォーは1660年の生まれである。

ただし、デフォーを小説家と呼ぶのは現代に生きる僕らからみた場合であって、デフォー自身は、自分を小説家等とは思っていなかったであろうと高山さんは言っている。「彼はジャーナリストである。イギリス最初期の新聞『レビュー』を編纂した編集者だった。しかも、ロンドンのシティー地区の大商人である」とデフォーの小説家とは異なる顔を紹介している。
その上でジャーナリストとしてのデフォーと、小説家としてのデフォーを次のような説明でつないでくれる。

今日、ニュース(news)は、あったことをあったまま伝えるものということになっている。一方、小説(novels)は、いくらでもうそ(フィクション)を書いていいことになっている。
ところがデフォーの時代は、ニュースとノヴェルをまったく区別しなかった。なぜならば、元々のヴェルは「小説」という意味の名詞ではなく、「新しい」という意味の形容詞である。新奇さを好奇心満々で追うためのジャンルがあっったのであって、その前に「うそ」「本当」の区別などどうでもよかったのだという気がする。

うそと本当の区別も、ニュースと小説の区別もなく、ただ新しく珍しいものを追い求める時代だ。新奇なものを見つけては活字にして見せる時代である。

この新奇なものを文字情報として並べ立てるというのが、彼の代表作『ロビンソン・クルーソー』にも通じている。

デフォーの時代以前は、雑駁な描写で少しも構わなかった。ところが、デフォーはとにかく克明だ。「ある日ぼくは難破した船からペンとインクを見つけてきた」とあり、そこからデータの記述が急に詳しくなるのも面白い。考えてみると『ロビンソン・クルーソー』という作品自体が日記なのだから、日記〈中〉日記なのだ。(中略)日記の草創期なのだ。これもデータ狂いの新ジャンル。一体書くということと人間の情報との関係とは何なのだろうか。

そう。それは日記の時代のnews/novelsなのだ。

流れ消えていく文字

このデータ狂いとも言われる「ファクト」の蒐集〜羅列の時代のあとに、チェンバーズの『サイクロペディア』のような百科事典が登場したり、博物学などが興隆する様は、すでに「近代文化史入門 超英文学講義/高山宏」で書いたので、ここでは繰り返さないが、こうした蓄積して蒐集して分類して並べて見せる技術が、博物館や美術館、さらにはそれに値段をつけた百貨店やギャラリーにもつながっているということは付け足しておこう。つまり、蓄積した情報をある視点で分類して並べることで、その情報の価値を見せる=魅せる現在のマーケティングにも通じる手法がその頃には確立されたのである。これはピューリタニズム以来、「データを集積すればリアリティに近づくという思い込み」が社会を支配してきたからである。

ところが、前述のように、TwitterのTL上で文字=情報は再び、流れて消えるものとしての立場に回帰しつつあるように思う。
文字は「ある」ものだということを、僕ら人類は、紙に印刷された書籍という媒体を通じて学んだ。だが、電子書籍はいうまでもなく、カメラや音楽プレイヤーでさえ、電子的な存在として非物理的なものとなった時代に、文字を「ある」ものと認識するのは正しいのだろうか?と思えてくる。先にアーカイブされたものは空間的な検索の対象になると書いたが、再び、流れ消えていくものに回帰しつつある言葉を空間的に探すような所作は適切なのだろうか?と。

マクルーハンはこんな風に書いている。

意味でなく効果への関心の移行したのが、われわれ電気の時代の基本的な変化である。効果というのは全体の状況にかかわるのであって、単一レベルの情報の運動にかかわるのではないからだ。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

TwitterのTL上に現れては消えていく情報に対する僕らの接し方を上記の引用は示唆していないだろうか? それは単一レベルの情報の意味を問うのではなく、全体の状況に対する効果こそを期待したほうがよいだろう、と。

Googleは情報が蓄積された左脳的空間に人間をおく。それは個々人にバラバラに用意された個室空間だ。一方、Twitterの流れ消える言葉の空間は参加型の儀礼空間であり、演劇的空間だ。
もはやピューリタンのように個室にこもって日記を書くのではなく、電気・電子的につながった新しい教会の儀式でカトリック教徒のように無数の声とともに在るが求められる時代だということだろうか。
だとしたら、そんな時代に僕らはこれから、情報の蓄積が価値を生むという左脳的な思い込みを捨てて、どんな産業革命を起こし、どんなマーケティングを展開していくのだろう?

   

関連エントリー


この記事へのコメント

この記事へのトラックバック