メディアはメッセージである

マーシャル・マクルーハンのあまりに有名すぎる格言、「メディアはメッセージである」。
これほど有名ではあるが、その意味はほとんど理解されていないか、誤解されているの言葉というのも珍しいのではないだろうか。

マクルーハン自身は、著書『メディア論―人間の拡張の諸相』のペーパーバック版の序文にこう書いている。

「メディアはメッセージである」というのは、電子工学の時代を考えると、完全に新しい環境が生み出されたということを意味している。この新しい環境の「内容」は工業の時代の古い機械化された環境である。新しい環境は古い環境を根本的に加工しなおす。それはテレビが映画を根本的に加工しなおしているのと同じだ。なぜなら、テレビの「内容」は映画だからだ。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

映画に対して新しいメディアとして登場したテレビだが、その「内容」として放映されるのは、依然として古いメディアである映画と変わらないことをマクルーハンは指摘する。それゆえに、新しいメディアであるテレビの時代になっても実際に人びとが見ているのは、相変わらず古い人間環境にあった映画なのだ、と。

このメディアの「内容」と、マクルーハンが「メディアはメッセージである」という場合の「メッセージ」とははっきりと区別しなくてはならない。

メディアのメッセージは「テトラッド(tetrad)」である

映画がテレビの「内容」であるように、新しいメディアの「内容」は古いメディアである。そして、人びとはメディアそのものではなく、その「内容」を見る。それゆえに、人びとは新しいメディアが登場した新しい人間環境の変容になかなか気づかなかったりする。

われわれはその「内容」すなわち古い環境にしか気づいていない。機械生産が始まったばかりのころ、それは徐々に新しい環境を生み出したけれども、その「内容」は農耕生活という古い環境であり、技芸であった。
マーシャル・マクルーハン『メディア論―人間の拡張の諸相』

産業革命がもたらした機械による生産は、しばらく農耕生活おける手工業を単純に効率化したものにすぎなかっった。手工業時代に作っていたものを、そのまま、機械で生産していたのだ。つまり、機械という新しいメディアが生まれても、その「内容」は相変わらず、手仕事だったのだ。だからこそ、機械生産による品物の質の劣悪さが問題となり、アーツアンドクラフツや日本民藝運動などの手仕事の魅力を回復する動きが起こったのだろう。

マクルーハンは『メディアの法則』で、メディア(人間の作ったあらゆる人工物が該当する!)は、人々の意識や文化に常に4つの影響(「拡張」「衰退」「回復」「反転」)を及ぼすという法則として「テトラッド(tetrad)」をしているが、まさに機械時代における手仕事の品の見直しとは、この新しいメディアの登場における「回復」の影響にほかならないのだろう。

マクルーハンが「メディアはメッセージである」というとき、想定しているのはそのメディアの「内容」=コンテンツではなく、機械時代における手仕事の「回復」を含んだ「テトラッド(tetrad)」の形式に分類できる人間環境の変革そのものを指している。

表音アルファベットの発明

この人間環境をある面を「拡張」するとともに、別の面を「衰退」させ、さらには過去に衰退した部分の「回復」をもたらし、極限的には当のメディアの性格そのものを「反転」させてしまうような影響をもたらす、影響力こそ、新しいメディアの人間社会や個々人の精神に対するメッセージなのだ。

マクルーハンが描くメディアの推移をみる場合、もっとも重要なトピックといえるのは、古代ギリシアにおける表音アルファベットの発明だろう。

表音文字の識字がもたらした古代ギリシア人の心性と文化への影響は破壊的なものだった。ミメーシスは各個の超然性に道を譲り、共鳴する統合的な口誦のロゴスは無数の断片に粉砕され、断片のそれぞれがいくぶん元の特質を残していたにすぎない。一世紀以上にわたって、膨大な数のこうした断片化されたシステムが、詩人、釈義学者、哲学者、修辞学者等々によって発明されることになる。
マーシャル・マクルーハン、エリック・マクルーハン『メディアの法則』

これはすこし前に書いた「自然から切り離された視覚空間で」でも指摘したことですが、視覚的な文字として表音機能を有したアルファベット(特にその子音の発明)は、記号や音素と言葉の意味するものを分離させた。それまでの聴覚的口誦文化においては意味するものと発話それ自体がかたく結ばれていたものが、アルファベットの発明によって発話の文脈とは無関係に対象が存在可能になった。

アルファベットのミメーシスを通じてギリシア人は少なくとも3つの形式で感受性からの視覚の分離を取り入れた。まず音素としての子音の発明と、その子音に独自の抽象的存在を付与したことである。それによって内的(想像上の)経験と外的(ことばによる)経験の分離が生じる。次に記号と音素が、ともに意味をもたなくなったため分離する。最後に抽象的かつ完全に一対一対応のかたちで、あらゆるものを視覚的なことばだけに翻訳するということが生じる。
マーシャル・マクルーハン、エリック・マクルーハン『メディアの法則』

この引用が述べているように、アルファベットという新しいメディアの登場により分離したのは、対象とことばだけではなかった。
内面と外世界の分離し、意識(図)と無意識(地)の分離を生んだのだ。それにより、外世界や無意識から自由となった内面の意識は、あらゆるものを自己の内面でことばとして可視化できるようになる。

それにより発話そのものがもっていた神性、呪力は失われ、人びとを統治する政治の方法も神性のものからより、官僚的な権威によるものへとシフトしたのだ。こうした人間環境に与えた影響こそが、アルファベットという新しいメディアの「メッセージ」だったのだ。
アルファベットによって書かれた「内容」は決してアルファベットというメディアの「メッセージ」ではないのだ。

iPhoneの「内容」はカメラであり、テレビや音楽プレイヤーであり、パソコンでもある。

新しいメディアの「メッセージ」とそれが伝える「内容」を混同しないこと。これは当然、現代の社会における変化を考える場合でも注意しておきたい事柄だろう。

例えば、iPhoneなどの新しいモバイル端末の「内容」は、カメラであったり、テレビや音楽プレイヤーなどのAV機器であったりと、すこし前にはハードウェアだったものがソフトウェアとして、新しいメディアとしてのモバイル端末の「内容」になっている。さらにえいば、一昔前のパソコンというハードウェアがその一部(メーラーやWebブラウザなど)ではあれ、モバイル端末の「内容」になっているとさえ言えるだろう。
その一昔前のパソコンがそもそも、アドレス帳だったり、タイプライターだったり、ノートだったり、計算機だったりといった古いメディアを「内容」として取り込んだものであり、結局、新しいメディアというのは幾重にも過去のメディアを入れ子状の構造で「内容」として取り込んでいるのだとみることができる。

だが、その時、カメラやテレビや音楽プレイヤーやパソコン(の一部)は、モバイル端末という新しいメディアの「内容」ではあっても「メッセージ」ではない。「メッセージ」はむしろハードウェアとして物理的な存在としてあったものがソフトウェア化することによってもたらされる、モノと身体との物理的なコミュニケーションの制約から解放され、ヴァーチュアルなアプリケーションとヴァーチュアルな意識がヴァーチュアルにインタラクションを行うという、インタラクションそのものの拡張であろう。

さらには、モバイルと言えば「いつでもどこでも」を実現するツールのように思われがちだが、実際にこの新しいメディアが実現しているのは、「いつ」という時間も「どこ」という空間も無意味となり、Twitterの複数アカウントで、異なるTLを同時並行的にみているような、複数の並行世界が同時に実在する、そんな新しい人間環境が生まれたことも、モバイル端末のメッセージではないだろうか。

正しいところにあって正しい方法で探査できるか。

いずれにせよ、具体的にモバイル端末で何ができるかという「内容」を考えただけでは、現在起こりつつある人間社会および精神の両面での環境変化を捉えることはできないであろう。このメディアがもたらす影響を正しく考えるためにも、マクルーハンの「メディアはメッセージである」という言葉をもう一度見つめなおす必要がある。

なぜなら、マクルーハン自身がこう言っているのだから。

人間は電子のスピードで変化する答え、それも数百万という答えに囲まれている。生き残れるか、コントロールできるかは、正しいところにあって正しい方法で探査できるかにかかっている。
マーシャル・マクルーハン、エリック・マクルーハン『メディアの法則』

そう。それは「生き残る」ためにも必要なのだ。

PS.
似たような内容でこちらにも書いています。

 

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