今日はそのあたりをすこし。
コンテキストオブユースとメタ認知
同じモノでも見方が違えば見え方=意味は異なる。それが人間中心デザインにおいて、コンテキストオブユースが大事にされる所以です。人間中心のデザインのキモは、他者をどれだけ想像できるかという、その想像力の逞しさだと思ってますが、結局はその他者を想像する力というのは、自分自身を他者化できる力だとも思ってます。他者のコンテキストオブユースを理解するためには、まず自分がそれをどう理解するか、その理解のフィルターはどういうものかを把握することも同時にやらなくてはなりません。自分自身の思考モデルや行動や価値観に対するメタ認知が必要です。
見るということにおける死角
ところが、これはどんなに意識しても完全にフィルターをなくして見るということはできません。見るということには、必ず視点が必要になる。視点をおけば死角もできます。それゆえ、作った人にはモノの一部が見えていないということにもなります。いいと思って作るのだから、作った人には間違いのすべてを発見できるはずがない。だから、第三者によるレビューが必要。基本です。専門家によるヒューリスティック評価のスキルを持っていても、自分が作ったものやデザインに関わったものが対象だと、きちんと評価して問題点を抽出することはできません。いいものを作ろうとして発揮した想像力が逆に別の想像を曇らせて死角をつくる。キュビズム絵画が問題視したこととおなじですね。
第三者の視点
その死角を取り除くためにも、第三者レビューが必要です。第三者がレビューをするのは、作った人が信じられるか信じられないかなどには無関係です。第三者にしか見えないこと(死角)があるからレビューするのですから。ゆえにレビュー者が無責任であることなどありえません。さすがにユーザーテスト形式でレビューを行う場合は、第三者としてのユーザーに責任があるとは言いませんが。
もちろん、この第三者レビューには、第三者が見て触れるプロトタイプが必要になります。プロトタイプを用いた検証がなくては話になりません。
逆にいえば、プロトタイピングを経て作っていないなら、実装段階の制作物がテスト対象、検証対象のプロトタイプの位置付けになってしまいます。これからリリースしようという時にそれはありえないでしょう。
なぜラピッドプロトタイピングが必要とされるかは、それを考えるれば自然と分かるはずです。
ヒューマンエラーの話に戻ります
ようはこうした仮説検証を含めた設計プロセスが杜撰だからこそ、ヒューマンエラーも起こり放題だし、まともなユーザー体験など得られるはずもなく、結果、製品やシステムの評価はよくなるはずもないということなのです。これは制作者やデザイナー、設計者の問題ではなく、プロセスの問題だと理解すべきです。
結局、人間中心デザインだけでなく、品質管理の9001なども含めて、ISO系のマネジメントシステムがうまく機能せず、負担にばかりなっている場合、その原因の大半はPDCAの最後のAの理解が間違っているです。そのあたりはシックスシグマのDMAICのCを理解することで、誤解は解けるはず。
このあたりの基本をしっかり抑えたうえでマネジメントシステムを回さなければ、生産の品質も、体験の品質もあがらず、プロセスはただ負担になるばかりです。表面的なしくみばかりにとらわれることなく、PDCAの基礎をしっかり押さえておきたいところです。
というわけで、最近にはめずらしく、人間中心デザインの超基礎的内容を書いてみました。
こういうのも書けるんですよw
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