一般的に思われているような固定された情報などは一切なくて、情報を自分のなかで認知したと感じる人の行動の文脈次第でいくらでも変化する。
だから、そこに情報があるかないかなどは客観的には判断できない。
それは常に感じとる人間との相互作用的な関係性のなかに置かれているから。
言語活動の本来の働きは世界を規定したり説明することではありません。自らに固有の世界をうまずたゆまず崩してはまた築き続けることです。マリナ・ヤグェーロ『言語の夢想者―17世紀普遍言語から現代SFまで』
言語でさえ、それを用いて表現するものを「規定」したり「説明」したりするのではなく、たゆまぬ崩壊と構築を繰り返す変化のなかに、人間を配置するための道具なのだ。
情報を受け取るという受動的な存在であるというよりも、もうすこし能動的に、けれど、すべて自分のなかだけで行うというよりもまわりの環境と相互作用的に、自己の内部で情報を生成・発動させる人間。
情報というものを考えの対象にする際は、この情報を発動させる人間というものをしっかりと意識していたい。
確立された言葉やイメージなどだけを情報と見たのでは、人間の認識や行動というのは、まったくわからない。
そうした視覚的に固定された情報だけでなく、音や肌触りなども含めて人と情報の関係を見ることがいま大切なのではないだろうか。
18世紀ヨーロッパの情報爆発
情報というものを人間と周囲の環境との相互作用によって生まれてくるものだと捉え直せば、いわゆる「情報爆発」だとか情報量の増大とかいった話も、従来とは別の見方が必要であることがわかる。歴史上、情報爆発と呼ばれた時期は何度かある。例えば、ヨーロッパでは18世紀がそうだった。
18世紀のヨーロッパでは、出版が本格的に市場化して、グローバルな貿易もスピード化した。17世紀の中ごろにヨーロッパ全土を巻き込んだ30年戦争が終わって平和になり、ようやく普通の人―といっても裕福な層ですが―が各地に旅行に出かけて異国の風景や珍しい事物を目にできるようになった。医学の発展はこれまで目にすることができなかった身体の内部を解剖図として目に見える形にしたり、顕微鏡や望遠鏡をはじめとする様々な視覚映像技術がこれまで視覚されなかった物をどんどん視覚化した。
こうした世界の広がりは、確かに新しい情報が増大させたように思えるが、情報爆発の真の要因は、情報量が実際に増えたことではなく、「何を情報とするか?」の見方そのものが変わったことだろう。
情報の爆発と近代市場環境の成立
「何を情報と見るか」を変えた具体的なものは、メディアである。印刷、出版だけでは、情報の概念は変わらない。グーテンベルク革命だけでは足りないのだ。
百科事典、百貨店、展覧会、博物館という情報陳列メディアが開発されたからこそ、情報爆発は起き得たのだと僕は考える。
百科事典や百貨店や展覧会やカタログや博物館というメディアがなければ、いまの市場はない。
これらのメディアが生まれたのと、株式会社や金融サービスや広告や政党が、コーヒーハウスと呼ばれたイギリスの社交場で、歴史的に同時期に生まれたのは偶然ではない。このあたりの事情は小林章夫さんの書かれた『コーヒー・ハウス』
18世紀、この時代にいまの市場環境を構成するしくみの要素のほとんどが新しく生まれたのだ。爆発的に増加した!と感じられるような情報の見方に関する変革とともに。
現代の情報爆発
18世紀のヨーロッパで起こった情報爆発とおなじことが現代にもあてはまると思う。新たな情報陳列メディアとしての検索、データベース、そして、Twitterなどが開発されたからこそ、いままた情報爆発の時代と言われる。しかも、クラウド空間に置かれる情報は、基本的に百科事典、百貨店的な視覚空間での情報陳列形式とは異なる。それは「何を情報とするか」の違いである。先にも書いたように、情報爆発は単に情報量が増えたから起こるのではなく、この「何を情報とするか」が変わらなければ起こらない。モノとしてのテキストやイメージが増えたことは、必ずしも情報量が増えることにはつながりません。なぜなら情報は人と環境との相互作用において生成されるから。
ただし、「何を情報とするか」の違いは、いわゆるIT技術が市場に浸透する以前に、電話やラジオやテレビが普及した段階ですでにはじまっていた。百貨店の情報とテレビの情報の間の違いほどは、テレビの情報とインターネットの情報の間の違いは大きくない。百貨店には自ら足を運んでモノに直接触れなくてはいけないが、テレビもインターネットも身体を移動させることなく情報を取得できる。マクルーハン的にいえば、テレビやインターネットなどのメディアは人間から身体を奪ったのである。身体を奪われた上で受動的に受信するものを「情報とする」と感じられるようになったという変化こそが現代の情報の爆発の真の要因だと僕は思う。
現代の情報観にあったインターフェイスの模索
しかし、この情報の定義の変化のもつ意味は、いまだ理解されているとは言えない。それゆえ、相変わらず時代陳列形式であるメディアのデザインが前の時代の情報の情報の定義に引っ張られたままになっている部分も大いにある。
まさに、この意味において、情報の定義の再確認と、その定義の変化に基づく人間の意味の認識や行動の変化にあわせた、広い意味でのユーザーインターフェイス(そう。百貨店や百科事典もUIに含むような広さ!)の模索が必要ではないかと思っている。
新しいメディアの力をもっと素直に受け止められるユーザーインターフェイスの模索。
そのためにも、人間と環境の間の相互作用のなかで生まれる情報というものを、あらためてじっくりと考え直したい。
いずれにせよ、世界は、僕らが思っているような姿はしてないわけで、その際、僕らがすべきことは、本当の世界はどうなのかを考えることよりも、いまの世界をいまのように見せている自分たちの視覚や思考そのものを考えてみることだと思う。
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