なんとかこのブログをはじめ、言葉を吐き出してはみているものの、どうも自分の書いていることに納得していない。完成度とかそういうレベルで納得がいかないという高いレベルの話ではなく、単純に、自分で納得できないまま書いている、思考が中途半端なまま言葉を紡いでいるという違和感が常にあるのだ。
その点、東京にいた頃は、決して完成度は低くても自分が納得したことを書いていたし、頭の中に書きたいアイデアが次々に浮かんできて、それが書くことのエンジンとなっていた。
そして、名古屋に来てそのエンジンは停止した。
それなりにこの状況を打破しようと試みている。
慣れない環境の気疲れで身体や頭が疲れているのも影響しているのかと思い、いつもより多く睡眠をとっているし、昨日はマッサージにも行った。
東京でやっていたように、一人で散歩したり、カフェに行って本を読んだりと工夫はしてみた。
今日も気晴らしに、栄の街に足を伸ばしてみたが、慣れない場所はよけいに思考の集中力をかき乱すばかりで、早々に退散してきた。
とにかく書くことと考えることへの集中力は、どうにも改善しない。
その影響は本を読むということにも影響している。
「読書月間@名古屋」というエントリでは、読もうと思っている本のリストを並べてみたが、これがまったく読み進められていない。書くこと、考えること、同様に、読むことにも集中できないのだ。
活字を追いかけるのに集中できず、書いている内容をうまく吸収できない。
この読むことを含めて、ノイズが多すぎて本来集中したい情報を脳がうまくとらえてきれていないような感じだ。
正直、書けないこと、考えられないことというのがこんなに苦しいものだなんて思わなかった。
それは書かなきゃいけないものがたまっていること、締め切りが迫っていることを除いても、苦痛だ。
その点、世界のあらゆる場で自分のパフォーマンスを常に発揮できる人のすごさをあらためて感じる。
東京から名古屋へと場を移しただけで、自分のパフォーマンスがこんなにも落ちるなんて思っていなかったし、考えるとか書くとかいう一見身体的でないように思える運動がこんなに身体的なものだと感じることはなかったことに驚いている。
もちろん、それは単純に物理的な場の相違の問題ではなくて、同じ言葉でコミュニケートできる仲間が周りにいるかどうかということも含めた場の問題だと認識している。
脳科学者の茂木健一郎氏は著書『脳と創造性 「この私」というクオリアへ 』の中で、京都の哲学の道を訪れた際に何の思索も思い浮かばなかった自分に、そういう能力がないと一瞬思ったが、すぐにそのあと、脳が思索などに集中できるのは、哲学の道という特殊な場の力ではなく、歩きなれた道がノイズに惑わされることなく脳が思索に集中できる環境を提供するからであることに気づいたといった旨のことを書いているが、まさに今の自分の置かれた状況はそのとおりなのだろう。
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