認知科学者ドナルド・A・ノーマンの「よいデザインの4原則」のひとつに「よい概念モデル」という項目があって、そこでは実際の道具が採用している働き方や意味のモデルが、それを使おうとするユーザーが頭のなかで想像する概念のモデルとができるだけ乖離なく一致していることが、ユーザービリティ的な価値観でみた場合の「よいデザイン」の条件とされるが、これもそもそも「外の世界とは無関係に、人の頭のなかで世界が拡張」できる想像力が、現代を生きる人間にはインストールされているがゆえのデザインの課題である。
僕ら現代人はこの内面にある想像力を生来のものと考えがちだが、「現代を生きる人間にはインストールされている」と書いたとおりで、実はそうではない。
以前に「身体感覚で「論語」を読みなおす。/安田登」というエントリーの中でも、
心が誕生して500年。孔子が活躍した時代は、まだ人びとは心をうまく使いこなせていなかっただろう、と著者はいいます。そんな時代に孔子が提示した論語(まだ書物になるまえですが)は、きっと最初の心の使い方のマニュアルだっただろうと著者は考えるのです。
というようなことを書いたが、ある時代以降、外界に対して自由な抵抗力をもつことも可能になる「心」というソフトウェアが、社会的レベルでインストールできるようになったという技術史的な変遷を経てはじめて、人間は「想像力」というスキルを獲得したのだろうと僕は考えている。そして、その「心」のインストールの条件には、文字という視覚的言語ツールの誕生が不可欠だっただろうとも思う。
そうした考えがもともとあった上で、おとといの「自然から切り離された視覚空間で」である。
無限のグリッドシステム空間
そのエントリーでは、マクルーハンらが指摘するアルファベットの誕生と軌を一にした人間の内面にある自由な想像空間の誕生についてすこし書いた。この考えは、マクルーハンの後継者としては代表的な存在といえる、トロント大学マクルーハン・プログラムのディレクターをつとめるデリック・ドゥ・ケルコフにも引き継がれている。
例えば、ケルコフは“アルファベットの思考態度の主たる特徴は、「遠近法」の発明である。”とした上で、
遠近法で物を見るということは、心のなかですべての物をしかるべき位置に正しい比率で配置することである。デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論―結合知に向けて』
と言っている。
この「心のなかですべての物をしかるべき位置に正しい比率で配置する」ためには、外の現実世界とは切り離された形で、心のなかにレイアウト用のグリッドが存在している必要がある。そのグリッド空間は、「自然から切り離された視覚空間で」でも指摘したとおり、外の世界の物理的な制約も受けず、無限の空間をもつ。直線はどこまでも延長可能で、2本の平行線は無限に延長されても交わらない。そのような連続的な内面空間がアルファベット誕生以降の人間の頭にはインストールされているとするのがマクルーハンの論旨である。
どんな連続体も本質的に、ユークリッド幾何学の直線や平面のように、地を欠いた図の状況を呈する。こうした連続体それ自体は無限で特徴をもたない。だが実際のところ、そうした連続体といったものはそんなものは存在しえない。自然には地を欠いた図などどこにもない。それどころか、自然には図などはひとつとしてなく、非連続で多様な、動的環境のモザイクがあるだけなのである。マーシャル・マクルーハン、エリック・マクルーハン『メディアの法則』
そう。それはそのグリッドシステムをインストールした人間の内面以外の自然の空間には存在しないのだ。
あらゆるものが配置可能な遠近法空間の合理性
このアルファベットの作用を受けてインストール可能になった人間の内面空間においては、単に無限の空間が生じたのみならず、連続した時間の流れが生じている。それにより時間がいつでも人間の自由な意思により、停止可能になったのだ。遠近法を活用することによって、アルファベットの作用を受けた脳の枠組が現実のうえに時間と空間というふたつの座標軸をはりつけ、その動きを止めたのである。デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論―結合知に向けて』
時間の静止によって、静止画としての遠近法は可能になる。それは本来的には不自然な図像なのだが、心にグリッドシステムをインストールした人間の目には自然に映る。その不自然な自然の舞台としてのグリッドシステムが可能になれば、あらゆる物事がひとつの秩序だった平面のうえに配置可能となり、その関係性を測り、分析することができるようになるのだ。ケルコフがこう指摘するように。
合理主義とは、物と観念と関係性を、個別にではなく、同じ秩序に属する他者との関連でそれぞれの比率を検討することである。デリック・ドゥ・ケルコフ『ポストメディア論―結合知に向けて』
あらゆる思考、あらゆる概念を、図を描くことで整理できるという僕らの能力は、実はこの遠近法的なグリッドシステムのインストールの延長線上で可能になるものなのだ。
〈内的構図〉において神とつながり、神を忘れる
そんな遠近法が図像表現法として確立すると、それに対するおかしな反動も生じてくる。それが「ディゼーニョ・インテルノ(デザインの誕生1)」から続くエントリーで論じたようなマニエリスムであろう。ルネサンスの反動としてのマニエリスムにおいては、外にあるものを模倣する描画に対して、芸術家の使命は内面にあるイメージを表出することだとする考えが生まれてくる。前にも紹介した「〈内的構図〉Disengo Interno」がそれだ。
最初に〈わたしたちの精神にある綺想体〉が生まれる、とツッカーリはいう。これを要するに、ある〈イデア的概念〉、ある〈内的構図〉Disengo Interno である。かくしてつぎにわたしたちはこれを現実化し、〈外的構図〉Disegno Esterno へともちこむことに成功する。〈内的構図〉は、さながら同時に視るという観念でも対象でもあるような一個の鏡にもくらべられる。というのもプラトンのさまざまなイデアは、神が〈神自身の鏡〉であるのにひきかえ、〈神の内的構図〉であるのだから。神は〈自然の〉事物を創造し、芸術家は〈人工の〉事物を創造する。グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界―マニエリスム美術』
この引用にあるように、芸術家はその描画技術によって〈内的構図〉を〈外的構図〉としての実際の絵に落とし込むことによって、〈神の内的構図〉としての普遍のイデアにつながっていく。
とはいえ、この時点ではまだ、「神は〈自然の〉事物を創造し、芸術家は〈人工の〉事物を創造する」といった具合に、神の創造性の優位性が保たれているのだが、ここから機械論的な自然観をもとにしたニュートン、デカルト的な思想に至るのはそう遠くない。そこから先はもはや、神の創造した外界の自然の事物とは無関係な人工的な世界が、人間の内面から発する人工物によってひたすら創造されていく現代にまでつながっていくのだ。
そうなれば、冒頭にも書いたとおりで、誰か別の人(デザイナー)の内面にある世界が反映された人工物と、それを用いる人の内面にある世界の齟齬だけが問題となり、そこにはいっさいの自然=外の世界は存在しなくなる。まさにヴィレム・フルッサーが指摘するところの「サブジェクトからプロジェクトへ」だ。
もちろん、そうした静的で、人工的な空間に囲まれた現在の環境はもはや個々の人間の頭のなかにある想像的な空間と大差はない。それゆえ、似たり寄ったりごく小さな差が個々人間の論争の元にもなったりする。大きな差であれば議論にもならないところに、小さな差しかもたない似たり寄ったりのものばかりが充満した空間においては、驚きや畏怖よりも不満や不平ばかりが生じてくるのも致し方ない。そういう世界だからこそ、ユーザビリティやユーザーエクスペリエンスは課題となり得る。それらはつまりごく近いもの同士における誤差についての課題なのだ。
とはいえ、この人工的な拡張空間の拡張はすでに完成したり、臨界点に達したわけではまったくない。
メディアが変われば、人間の頭のなかの空間そのものが拡張する。文字の発明に端を発したメディアの進化はいまだ止まることなく、人間の心を拡張しつづけているのだ。
関連エントリー
- 自然から切り離された視覚空間で
- ディゼーニョ・インテルノ(デザインの誕生1)
- ポストメディア論―結合知に向けて/デリック・ドゥ・ケルコフ
- 経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ/エドワード・S・リード
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