何が興味深いというと、ギリシアの時代のアルファベットの誕生が視覚による図の分離を生み出したという指摘、がだ。
まず、視覚のほかの感覚とは異なる機能として、次のようなことが指摘される。
ロバート・リブリンとカレン・グラヴェルが言っているように、われわれの視覚の第一の機能は、図をその地の上に孤立させることである(『感覚を解読する』)。これは視覚だけがもつ希有な特徴であることが文化の痕跡のなかにも見られる。視覚以外のどんな感覚も、高鮮鋭状態、すなわち強く作用するよう強いられた場合において、図を孤立させ切り離すことによって地を抑圧するというようなことはできないのである。マーシャル・マクルーハン、エリック・マクルーハン『メディアの法則』
視覚においては、図をみるとき、地は消失することがありえる。アルファベットのような文字を読む時などは特にそうで、うしろの紙や画面が気になったら、文章などは読めない。
しかし、ほかの感覚、たとえば聴覚ではそのようなことは起きえず、ひとつの音が前景化して聞こえる時でも、うしろの騒音が聞こえなくなるということはない。触覚などはそもそもひとつの部分が図として前景化することなど起きないだろう。
さらに、視覚以外の感覚であれば、図と地は常に固定された関係にあるのではなく、感覚器をもつ人間の行動や注意の焦点の当て方によって、動的に、相互作用的に、その関係は変容する。ところが以下の引用のとおり、この関係を固定することは図と地を切り離した結果として生じることがある。
図と地が相互に作用しあっているときには両者は動的な関係にあり、絶え間なく相手を変容させている。従って、図の静止は図を地から切り離すことによってのみ可能となり、また切り離されたことの避けがたい結果である。マーシャル・マクルーハン、エリック・マクルーハン『メディアの法則』
これが視覚の特性で、この視覚のもつ特殊性を指摘したのが、最初の引用部分だ。
自由な想像の空間
この視覚による図と地の分離という特徴と、アルファベットという新しい文字の出現の結果を、マクルーハン父子は以下のように関係づける。アルファベットのミメーシスを通じてギリシア人は少なくとも3つの形式で感受性からの視覚の分離を取り入れた。まず音素としての子音の発明と、その子音に独自の抽象的存在を付与したことである。それによって内的(想像上の)経験と外的(ことばによる)経験の分離が生じる。次に記号と音素が、ともに意味をもたなくなったため分離する。最後に抽象的かつ完全に一対一対応のかたちで、あらゆるものを視覚的なことばだけに翻訳するということが生じる。書き手よりもむしろ読み手の方が、読むという行為のなかで再演と再認識の基礎としてのこうした意識の分離状態を習得する。マーシャル・マクルーハン、エリック・マクルーハン『メディアの法則』
ここで注目したいのは、「あらゆるものを視覚的なことばだけに翻訳する」という視覚の分離の3つ目の形式だ。
アルファベットによる記号や音素と、言葉の意味するものとの分離は、内面と外世界の分離や、意識(図)と無意識(地)の分離を生む。外世界や無意識から自由となった内面の意識は、あらゆるものを自己の内面でことばとして可視化できるようになる。この場合の「あらゆるもの」が何かがこの場合、重要だ。それは外世界にあるものだけでなく、外世界には存在しえないものも含めて、あらゆるものなのだ。
つまり、これは自由な想像力の発明といっていいものなのだ。
もちろん、アルファベット以前に、人間にまったく想像力がなかったわけではない。なければアルファベットそのものを創造/想像できなかっただろう。だが、聴覚空間においては、図を地と完全に切り離せないように、アルファベット以前の文字文化においては、文字は発話やその文脈と完全に切り離すことができない。その段階では、人の想像力が完全に自分たちが生きる外界から自由になることはない。
外界と無関係な内面をもつことがなければ、内面だけで機能する論理学や哲学、あるいは無限を想像できる幾何学などは生まれないのだ。
自然から切り離された視覚空間で
そう。アルファベットが拓いた、地から完全に自由に図を操作できる人間の想像力は、ユークリッド幾何学空間の均一なグリッド状の無限空間をもたらす。直線はどこまでも延長可能となり、二本の平行線はどこまでいっても交わらなくなる。どんな連続体も本質的に、ユークリッド幾何学の直線や平面のように、地を欠いた図の状況を呈する。こうした連続体それ自体は無限で特徴をもたない。だが実際のところ、そうした連続体といったものはそんなものは存在しえない。自然には地を欠いた図などどこにもない。それどころか、自然には図などはひとつとしてなく、非連続で多様な、動的環境のモザイクがあるだけなのである。マーシャル・マクルーハン、エリック・マクルーハン『メディアの法則』
ところが、このユークリッド幾何学空間は、上の引用の指摘を待つまでもなく、現実の世界には存在しえない。地から切り離された図が視覚以外の五感をもつ人間には本来、文字どおり想像上の世界なのだが、この想像力が外界から切り離された自由を与えられた途端、プラトニックに存在可能となる。そして、この視覚による現実からは自由なプラトニック空間において、人は何にも邪魔されることのない自由な思考を行うことが可能となる。人工的なヴァーチュアルな空間で人工的なの思索を思う存分できるようになるのだ。
ここから「経験のための戦い―情報の生態学から社会哲学へ/エドワード・S・リード」で書いたような、直接的経験をもたない、ことばや映像による二次的経験のみの人工環境での生活まではあと一歩である。
視覚空間中心のメディアと、直線経験を欠いた世界の関係がここまで腑に落ちるようしてもらえたのは、ありがたい。
以下の引用文などは、まさにギブソンの生態学的心理学のことばといわれても不思議はない。
視覚空間は人間が作った人工物であるが、聴覚空間は自然の環境形態である。視覚空間は眼が他の感覚から抽象され引き離されたときに、眼によって創造され知覚された空間である。その特質に関して言えば、この食空間は連続的、均質的(画一的)そして静的な容れ物である。そして他の諸感覚やその独特の様態との相互作用から注意されてあるという基本的な意味において、視覚空間は人工物である。マーシャル・マクルーハン、エリック・マクルーハン『メディアの法則』
人工的な空間としてのメディアと、直線経験的なギブソンの界面(インターフェース)。この関係を引き続き考えてみたい。
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