この2冊を並べると(本当は単に並べるだけではなく読み比べると)、
何が正しく、正しくないのは何かがわかる(気がする)。
まず、正しいほう。こちらは簡単だ。
1つは、心理学で注目を集める「適応性無意識」。
理由はわからないけど「これだ!」と思ったりする最初の瞬間的判断が正しいってこと。
もう1つは、Web2.0的ミームの1つでもある「集合知」。
適切な状況の下ではごく普通の人の集団が優れた個人よりも正しい判断を下すことがあるというもの。
じゃあ、反対に正しくないのは?
正しくないほうは2冊のこんな引用から導かれるのではないか。
洞察力は電球と違って、自分の意思でつけたり消したりできない。風が吹いただけで消えてしまうロウソクの火のようなものだ。マルコム・グラッドウェル『第1感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい』より
個人の回答には情報と間違いという2つの要素がある。算数のようなもので、間違いを引き算したら情報が残るというわけだ。ジェームズ・スロウィッキー『「みんなの意見」は案外正しい』より
最初の2秒で得られた正しい洞察は、それを言語化しようとした際に失われることが多い。
その一方、個々人が持っている私的情報には正しい部分と間違いの両方が含まれる。
となると、個人によって、言語化あるいは意識化された情報って「正しくないもの」の候補として有力なのではないだろうか?
補助線としてグラッドウェルが別の本で、犯罪学分野の「割れた窓理論」を参照しながら、人間が背景からの影響を含む周囲の環境からいかに影響を受けやすいかを端的に示した箇所を引用してみよう。
性格は、わたしたちが考えているもの、あるいはむしろ、そうであってほしいと願っているものとは違う。それは確固としたものでも、互いに密接に関連しあうわかりやすい一組の特徴でもなく、そのように見えるのはただ、人間の脳の組織的欠陥のなせるわざだということになる。マルコム・グラッドウェル『なぜあの商品は急に売れ出したのか 口コミ感染の法則』より
個々の人間の意識している情報がかなりの確度で間違っているというだけでなく、そもそも人間は自分のこと(性格)さえ見誤っている可能性が大きいのだ。
とどめにもう一度、スロウィッキー。
本当の知力は個人に備わっているという私たちの思い込みがあげられる。だから最良のコンサルタント、最良のCEOなど、ともかくその任にいちばんふさわしい人を見つけることこそが違いを生むと信じている。ジェームズ・スロウィッキー『「みんなの意見」は案外正しい』より
この勘違いにより生み出されるのは「違い」ではなく「間違い」だ。
こんな風に言語化された情報、知識の在り処やその扱い方、思考の方法など、僕たちの普段信じていた常識はかなり高い確率で大きく間違っているといえるのではないか?
■Web2.0的「集合知の利用」の再考
そんなことを考えると、Web2.0的「集合知の利用」を見誤るとこわい。
単にそれは、はてブ的多数決による人気投票ではない。
だって、あれは明らかに数字的に目立ったものにさらに票が集まる傾向をもつもので、スロウィッキーが懸念するところの情報カスケードそのものだ。
ある閾値を超えたノードに「パレートの法則」よろしく票(リンク)が集中するのは、Webにように成長するネットワークの特徴でもあるが、それは賢い集団の特徴である「多様性」「独立性」「分散性」「集約性」の4つの要件のうち、最初の「多様性」と「独立性」を欠いた状態となる。
それが梅田さんの『ウェブ進化論』が閾値を超えて話題となり、売上も予想外に伸びたようないい方向に向けばよいが、いわゆる「祭り」みたいに集団が特定の個人なりを攻撃しはじめるようなことになると、それはある意味「あちら側」での集団による暴動のようなものではないか?
同様にあまりにブログ同士で近親相姦的なつっこみ合いを展開するのもそれはそれでおもしろかったりもするが、おもしろいというのはそもそも共通の地盤を有しているか感じられることでもあり、だとしたら、そうしたつっこみあいも「独立性」や「分散性」を失わせてしまうのではないかと思ったりもする。
その点、最近も話題になったようにGoogleが「人工的に構築された大規模なリンクネットワーク」のようなSEOスパムに対してペナルティを与えることで、集合知の多様性や独立性を維持しようとするのは、Webのネットワークを賢い集団にする方向性を示す意味では理にかなっている。
そういう意味ではFolksonomyやSBMのようなものにももしかしてスパム対策的なものが必要なのかもしれないのかななんて思ったりする。
まぁ、それ以上に個々人が「専門家崇拝」をやめたり、「右向け右」的態度をあらためたり、自分の意識的思考はあやしいのを理解し、グラッドウェルがいうように壊れやすい適応性無意識を維持する方法を訓練によって身に着けたりということが重要だったりするのだろう。
「あちら側」の人間が「こちら側」の人間に対して、変化に愚鈍だなんて感じているなら大間違いで、実は「あちら側」の人間もここまで見てきたような意味では同じくらい愚鈍なのだ。
これはだんだんWeb2.0だとか、ウェブ進化論なんて言葉のイメージを超えた、本当の変化を促すような、科学の分野でいうところの「還元主義から複雑系(あるいはネットワーク思考)へ」といった部分まで範囲が広がってきているような気がするが、どうだろう?
いずれにしてもRSS/Atom Feedだとか、記事単位だとか、極小化したWebのパーツだったり、有名ブロガーだとかの部品を個別にとらえてるだけじゃ、ダメなんだろうなって気がする。
(参照:microなmicroなもののネットワーク)
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