2011年03月09日

形の冒険 生命の形態と意識の進化を探る/ランスロット・L・ホワイト

形を思考すること。形を思考の対象にして、その形成がどのようになされるかに思考を集中させること。
この本の著者ランスロット・L・ホワイトが指摘しているのは、そのことです。

この場合の「形」とは、何も目に見える形ばかりを指しているのではありません。
目に見えにくいものも実は形を持っています。僕らはそれをつい日常見逃してしまいがちです。
でも、最近はソーシャルメディアの普及によって、「つながり」や「関係性」のような概念も普通の人が普通に捉えられるようになってきています。この概念というのも形です。

僕は「透明な形をデザインする」という表現をよく使いますが、人の動きを促すような作法やルールのような形もあります。
言葉は形ですし、思考や概念もまた形です。感情も、知識も、それぞれの形を持っています。

一方で、そうした形に対する思考がいま欠けていると感じます。

特に形を生み出すプロセスに対する思考は著しく欠けています。形を静止し固定したものとしてのみ扱い、思考や概念のような形がどのように生じてくるのか、感情や言葉という形がなぜ生まれるのかということを問わず、人の思考や感情を固定してあるもののように扱ってしまいがちです。
著者が指摘しているのもその点で、著者は結果としての「形態形成プロセス」に着目することが必要だと解きます。

基礎デザイン学を打ち立てた、向井周太郎さんは『デザインの原像―かたちの詩学2』のなかで、「形」ということばの「ち」を「いのち」や「いかづち(雷)」「をろち(蛇)」の「ち」同様の、自然の激しい根源的な力をしめす古語としての「ち(霊)」ではないかと言っています。おもかげや母型としての「型」に、自然の根源的な力=霊を宿したものが「形」というのですが、この型から形を生成するプロセスへの視点が僕らにはすこし欠けているところがあって、あたかも確固たる形ばかりが存在するかのような考え方ばかりが見受けられます。

そうした状況に対して、形を固定したものとしてばかり捉えたのでは、個別の形態の違いにばかり囚われてしまい、世界がバラバラに存在しているように感じられてしまうと失望を描いたのが、本書の著者であるランスロット・L・ホワイトです。

世界は現在、ばらばらに分裂している。国際的にも社会的にも調和は失われ、過去の伝統と現在の経験と生産的行動の3つのバランスも崩れている。知の統合もなく、人間自身に対する適切な洞察も欠けている。

いや、正確には、著者が失望したのは現在の状況に対してではありません。本書は、1954年に書かれているからです。つまり、今から60年以上も前に、形に対する視点の乏しさに失望しているのです。もちろん、その望みのなさは60年前以上に悪化しているように感じられます。

著者は単に失望するばかりではなく、先に書いた「形態形成プロセス」という用語を用いて希望を与えてくれます。

形が生まれてくる形態形成プロセスに着目することで、科学がまったく別のものとして看做してそれぞれに研究分野の異なる物質、生命、精神の分野を統合するような視点が生まれてくるだろうという仮説を提唱しているのが本書です。

物質、生命、精神

さて、著者は本書の冒頭で次のような問いを発します。

「物質、生命、精神という3つの領域の基本法則やそれらの相互関係について、科学は何を語れるのか?」と。

その自ら発した問いに対して、著者は、

「そのいずれに関しても、根本的なことはまだ何も語れない。物質の基本的ななりたちについても、生命体のしくみについても、心理的なプロセスについても、あるいはその相互関係についても、満足のいく理論は存在しない」と答えています。

さらに別の箇所では、次のようにも書いています。

ガリレオやケプラーが精密化学の基礎を築いてからすでに15世代をへた今日の現状がこれでは、いささか失望したくもなる。だが、特定の事実や部分的な法則は数多く明らかになっても、真に根本的な原理はいまだに発見されていない。いいかえれば、物質と有機体と精神、およびそれらの相互関係を明らかにする原理は、みつかっていないのである。

いや、失望するだけであれば僕にもできます。

問題はこうした失望をきっかけに、著者のようにその根本的な原理の発見を目指そうという人がいなくなったということでしょう。
著者はさらに続けて、かつてキリスト教が与えてくれたような安定を、統一的な理論を欠いた現代の科学は与えてくれないとも言っています。

概念という形

著者は、自然界における、混乱に向かう方向性と秩序・構造化に向かう方向性の2つがあることに着目します。宇宙的な物理のレベルにおいても、個別の生命のレベルにおいても、常に混乱・カオスへ向かう方向性と、秩序や構造の形成に向かう2つの方向性がある。エントロピーがあれば、その逆の働きもあり、そうした2つのベクトルもった動きを人間の精神の動きにも見いだします。

その1つの例が「概念」です。
そう。冒頭で挙げた「つながり」や「関係性」も概念です。

人類はほとんど無意識のまま理解への模索を行うなかで、ひとつのきわめて価値ある手段を編み出した。概念である(中略)概念は、ほとんど無意識といっていい心理プロセスの産物にほかならないのだ。

この記述を読んで、僕は以前に「洞窟へ―心とイメージのアルケオロジー/港千尋」で紹介した先史時代の壁画にみられるマカロニ図法をイメージします。
無意識で描かれる無意味なラインの重なりが、ある瞬間、不意に「牛」という観念=イメージにつながっていく。物理における相転移のような変換がそこで起こる。
それに似た形態形成のプロセスを、著者は概念の形成にも見ているのです。

ある種の形態形成プロセスが、脳に蓄えられた過去の体験のプラスチックな記録のなかに新しい活動や反応の形態を作り出す。これらの新しく統合された形態や明確化されたパターンが、一定の状況の下でわれわれの注意の対象となったとき、〈概念〉として認識されるのである。

デタラメなラインがある時、牛のイメージに連結されるように、元々無関係であった記憶やパターンが重なり合うことで、「概念」が生まれると著者は考えるのです。

そして、個々人のなかで「概念」が形成されるのと同じように、社会においても状況が繰り返される中で、あるパターンの表出が県庁になるにつれ、「概念」の共有がなされ、「概念」が社会的な形として形成されるのではないかと思います。

「創造的(creative)」から「形態形成的(formative)」へ

著者はこうした、ある形態が生れ出るプロセスそのものに着目することで、物質、生命、精神という統一的な説明原理をもたない事象をなんとかつなぎとめようとします。

その一方で、秩序や構造の形成に向かう方向性と混乱・カオスへ向かう方向性の2つの異なるベクトルとしての、対称性と非対称性に着目して、その正反対にみえる2つのベクトルこそが深く関係し合いながら、形態形成を促しているのではないかという仮説を立てます。

「完全」という概念で想像力を毒されている者には、けっしてこう考えることはできないだろう−結晶や有機体が成長するのは、主としてその不完全性のお陰なのだ。

対称性の裂け目としての非対称性に着目しつつ、その裂け目があるからこそ、対称性に向かう形態形成プロセスが動き出すのだというのです。

その視点で見るなら「人間とは、偶然によって支配された世界における普遍的・有機的・社会的かつ個人的な形態形成的動向の表現である」ということにもなります。普遍的というレベル、有機体としてのレベル、さらには社会的かつ個人的なレベルで、それぞれ形態形成プロセスが行われた結果、

もしも人間精神が科学の発展によって、自らの創造的能力が大脳の構造的特性の現れであるという認識に至るのだとすれば、二元論的思考を抱き誤解に通じるおそれのある「創造的(creative)」という語は−少なくともある目的のためには−捨てるべきであろう。そのかわりに、より一般的な「形態形成的(formative)」という言葉を、新しい形態をもたらす構造化されたプロセスにあてはめて使うことを提起したい。

著者のいう、この「創造的(creative)」に代わる「形態形成的(formative)」という言葉に、僕はポストデザイン思考の可能性を感じています。
静的で連続した時空間に事物を配置するデザイン的思考に対して、よりダイナミックで非線形的な時空間のうえで思考を展開するポストデザイン的思考。あるいは、モノ-所有-個人という関係の在り方から情報−シェア−共同体という関係の在り方へのシフト。そんな大きなうねりのなかで「創造的(creative)」思考から「形態形成的(formative)」思考への変化を捉えてられるのでは?と思うのです。

そんなポストデザイン思考という視点から、最近、このブログでの言及が多いマクルーハンの思考とあわせて、実は昨年の6月くらいに読んで感銘を受けながら書評を書かずにいたこの本のもつ意味をもう一度、自分でしっかり捉えなおしてみたいと思いました。



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posted by HIROKI tanahashi at 23:32 | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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