デジタルな本より紙の本のほうがいいなど、いろんな声も聞かれますが、紙の本がまったくなくなるという話ではないでしょうし、そもそもヘンリー・ペトロスキーの『本棚の歴史』
また、本の印刷、流通に関わる人々にとっては、電子書籍化は危機だといえるのでしょうけど、すくなくとも出版に関わる人にとっては実は危機とはいえないだろうと思います。
そもそも、出版や編集という仕事は、紙の本を商品として作る仕事ではないはずだからです。たとえば、江戸期の有名な出版人、蔦屋重三郎などは単に出版者であっただけでなく、歌麿や写楽、太田南畝や山東京伝を育て世に出した人でした。
そんなことを思いつつ、江戸期の出版について、いろいろと知らべてみようと思って、何冊か買った本のうちの一冊がこの今田洋三さんの『江戸の本屋さん―近世文化史の側面』
江戸の出版業は田沼時代における、江戸をめぐる商業資本の発展、江戸住民の文化創造力の向上を背景として、画期的な発展を示した。画期的なという意味は、封建支配者の文化政策を分担したり、売れればよいというだけで自らの創造的見識をもりこむことの薄かった出版界で、出版が文化運動の一環としての意味をもつことを自覚しつつ経営を築く出版者があらわれてきたことである。須原屋市兵衛や蔦屋重三郎にそれが典型的にあらわれている。(中略)単なる商品生産者ではない、未来を切り開く文化思想の創造をすすめ、作者をも育てあげるという主体的経営は、まさに、近代出版の先駆と考えてよいであろう。
そう。「単なる商品生産者ではない、未来を切り開く文化思想の創造をすすめ、作者をも育てあげる」役割を担う意味での出版人。
そんな江戸期の出版人たちが躍動した歴史を追ったのが本書です。
はじまりは京都から
産業としての出版業は早くも江戸時代の最初に京都からはじまったといいます。そのきっかけは、秀吉による朝鮮出兵でした。秀吉による朝鮮出兵によって陶磁器の技術が彼の地から持ち帰られ、九州の窯場の発展がみられたというのはよく知られていますが、朝鮮からは同時に活版印刷の技術も持ち帰られたそうです。
その活版印刷技術を用いて、最初は天皇や幕府の命により、『日本書紀神代巻』『論語』『孟子』『三略』などの古典が刊行されます。さらにそうした権力者側近であった知識人により『東鑑』や『徒然草抄』が刊行される。本阿弥光悦が『伊勢物語』『方丈記』などのいわゆる嵯峨本と呼ばれる活字本をつくったのもその時期です。
しかしこれらはごく一部の狭い層に向けられた本でした。
そこに京都の町衆による本格的な出版業の動きが芽生えます。
元禄期の京都書林十哲のほとんどは、寛永年間にでそろっている。かれらが、天皇・将軍や特権的知識人たちの活字印刷をうけつぎ、それを製版印刷にかえたのである。そして、本格的な出版文化をつくりあげたのである。
おもしろいのは、ここで印刷技術が活字印刷から製版技術に変わっていることです。西洋における出版が活字印刷によって広がったのとは異なり、日本では江戸時代全期にわたってこの後も製版印刷が出版業を支える技術となります。木の版板にそのまま文字や絵を掘り込む製版印刷が後に日本独自の黄表紙などの書籍デザインを生んでいきます。
こうした出版の歴史が江戸初期の京都から始まっています。
この出版を始めた京都の書商たちは、応仁の乱で荒廃しきった京都の町を自らの手で復興させてきた町衆の末裔によってはじめられているというのが興味深い。
かれらが出版文化を成立させ、強力に推進し、新しい社会的なコミュニケーションを活性化させていった様相には、近世町人とは異質のものを感じさせる。幕藩体制の中で、主体的活動を抑圧され、身分制のわくにはめこまれて、町人とよばれた存在からはでてこないような活動力がうかがわれるのである。
これはやはり、応仁の乱のころから、京都市内の町がいくつか集まって親町を形成し、親町ごとに集団性・自主性をもち、市内の社会的秩序をつくっていった町衆、豪商土倉・酒屋を指導者としてさらに公家衆を吸収した町衆、風流踊や小歌などを発展させて新しい自由な民衆文化を育てていった町衆がもっていたエネルギーを継承して、はじめてでてくる活動力ではないかと思うのである。
単に、金儲けのために新たな産業を興すというのではなく、自らの手で自分たちの暮らす社会の文化そのものを作り出そうという心意気が、これまでの社会に見られなかった「出版」というイノベーションを生み出したのでしょう。
元禄大坂の新興書商
ところが、その京都の出版文化にも翳りがみられてきます。西廻り海運の航路が京都を通ることなく大坂に直接つながるように変更されると、京都は平安以来の中央市場という性格を失っていきます。市場の中心は大坂へ移り、出版業も大坂で新興書商が次々に登場してきます。
その出版業界の力の京都から大坂へのシフトに大きく影響を与えたのが、井原西鶴による好色本・浮世草子でした。
西鶴が『好色一代男』を世に出したのは、天和2年(1682)であった。開板者は大坂の荒砥屋孫兵衛という正式の書物屋かどうかもわからない無名の者である。(中略)この『好色一代男』が読書界・出版界に与えた衝撃は、出版史上、たいへん大きなものがあった。新興とはいいながら、本格的出版をはじめつつあった、池田屋三郎右衛門や森田庄太郎らの大坂の本屋たつは、たちまち西鶴著述の稿本にとびついた。
京都で出版された本は、庶民化されたとはいえ、まだ歌書や禅書、謡本など、かたい本でした。
大坂の新興書商が出したのは、先の西鶴に代表される好色本・浮世草子でしたし、重宝記、万宝と呼ばれた日々の暮らしの知恵を綴ったマニュアル本でした。いつの時代でもそうなんでしょうけど、庶民に多く受けるのは、こうした下世話な小説、マニュアル本の類でしょう。
読者あっての浮世草子、観客あっての近松劇、市民あっての越後屋商法、そして地方にまで拡大していた俳諧好きや読者たち、これらは、元禄の社会経済の構造が生みだした、同質の文化的・社会的現象である。
元禄時代の大坂の出版人たちは、同時期の近松浄瑠璃や越後屋(三井)の商法などと同様に、そのターゲットを庶民に絞ることで成功を収めたのです。
江戸の書商たち
そうした西ではじまった出版業の興隆は、やがて江戸でも見られるようになります。先の蔦屋重三郎だけでなく、そのすこし前に、平賀源内の書籍を刊行したり、杉田玄白らの『解体新書』を出版した須原屋市兵衛なども、まさに新たな文化を創造するイノベーティブな出版人でした。と同時に、地方の知識人らが農村の荒廃に触発されて書いた書なども積極的に出版したのです。
宝暦10年(1760)以来52年間にわたる市兵衛の出版活動で最も注目すべき点は、田沼時代江戸文化の結晶を社会的交通に送りこんできたことであるが、私自身が最も心をひかれるのは、農村荒廃のすさまじい状況に心痛する地方知識人の著作を、採算を度外視して刊行したことである。源内・玄白・中良ら、地平のかなたに世界を新しく発見しつつあった都市の先進的学者の著作と、農村荒廃に触発されて書いた書物を同一の交通局面に送り出しつつあったことである。
「採算を度外視して刊行した」というあたりに江戸出版人の粋(イキ)を感じます。単に売れるものを作るという発想では、この時代の出版のイノベーティブな動きは生まれなかったのでしょう。
この須原屋市兵衛に続く形で、江戸の文化に革命的な流れを生み出したのが、蔦屋重三郎でした、市兵衛も蔦重もともに、当時大変きつかった出版統制によって処罰を受けています。
以前に紹介したタイモン・スクリーチの『定信お見通し―寛政視覚改革の治世学』
情報規制とその解禁
江戸期の出版の歴史は、文化的イノベーションとそれに対する規制の歴史でした。幕府は出版業者に対してさまざまな規制をしていますが、その一番大きなものは読売(新聞的なジャーナリズム)への規制です。時事ネタに関する出版はかたく禁じられていました。いまでも、そうですが、時事情報は権力者への批判を必然的に伴うものだったからです。
ところが、幕末には度重なる飢饉やそれに伴う打ちこわしなど、社会の危機感が高まるにつれ、人々の情報に対する欲求も高まってきて、ついに幕府も大火や地震などの災害に関する読売発行は認めるようになっていきます。
こうした地方民にいたるまでの国民の情報関心の増大が、近世日本のコミュニケーションの発展をささえていたともいえよう。だからこそ、幕府は、読売の出版の禁止に狂奔したのであった。こうした情報関心のある所、読売が解禁にでもなれば、あっという間に、近代新聞への道を開いてしまうであろう。天保期の先進的思考を身につけつつあった渡辺崋山は、西欧文明の発展の根本原因を、科学的学問の発展におき、学問の発展は、まず情報の開放にある、新聞の発達にあると見ていた。
飢饉によって危機が高まると同時に、農民たちのあいだでも知識に対する欲求が高まってくる。各地に寺子屋が増大し、その寺子屋で使う教科書の発行が増えるのもその時期です。そうして、読み書きができる人の数も増えると同時に情報への欲求もより高まっていく。江戸期を通じて庶民化する方向で進んだ情報・コミュニケーションの歴史は幕末にいたるにあたって、幕府の情報規制を維持し続けるのがもはや不可能なほど、最大化したのです。
庶民の情報関心の増大、寺子屋の増加、教科書の商品価値の増大、地方書商の発達、国民的規模での書籍市場の形成、幕末における社会的コミュニケーションの新動向が、関連し合い補い合って明治維新の、ひいては近代文化発展のコミュニケーション史的前提となるであろう。
こうした情報関心増大の流れが明治維新の要因の1つだったのでしょう。
電子出版の時代に江戸を想う
こうした歴史をのぞくと、いまの情報化社会についても考えざるをえません。読売の緩和の方向に幕府が舵を切ったのは、低質な噂の類いが広まり、人々の混乱が拡大するのを避けるためであったわけで、それまでは隠す方針だった幕府も、噂が広まるくらいなら、まともなジャーナリズムによる報道のほうがマシだと考えたからですが、これはソーシャルメディア時代の現在の教訓にもなるはずです。
Twitterに代表されるような噂レベルのコミュニケーションももちろん必要なのですが、やはり、それと同時にプロのジャーナリスト、出版人の力が必要でしょう。
そのプロたちの事業が危機に瀕しているのであれば、それは単なるその人たちの職業的な危機というだけでなく、僕たちが生きる文化そのものの危機なんではないでしょうか?
電子化によって単に本の価格が下がるとか、そういう話ではない、情報に支えられたいまの社会そのものの変化にこそ目を向けなければならないでしょう。
こうしたところを考える意味での、引き続き、江戸期の出版、コミュニケーション、文化の形成に目を向けてみようかと思いました。
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