何も変えなくていい、何もしなくていい

最近、自分のなかで明らかに価値観が変わってきているのを感じます。
何も変えなくていい。無理して何かをしなくていい。むしろ、そうすることがかっこ悪く、おろかなことのように思えるのです。

弱くていい」を書いた頃から、ずっとそれを感じています。1つ前の「お金がないと食べるものさえ手に入らないなんて」も結局はおなじ気持ちからの発露です。

もちろん、その兆候はもっと前からありました。
『フォークの歯はなぜ四本になったか』書評)の解説を書いたときにすでにその自覚が見え隠れしています。その本で著者のペトロスキーは「完璧になった」人工物などありえない、と言っているのですが、それはデザインとは常に新たな欠陥、問題を生む術であるということでもあるということです。

「モノが1つ生まれれば世界が変わる」。
僕はそう解説で記していますが、その変化は良い方向にも悪い方向にも進みます。そして、その変化は実はコントロールできない。その意味では実は人間はデザイン=構想なんてできていないのです。

いや、僕がそういうことを感じ出したのは、もっと以前からです。
すでに『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』を書いている時点で、実は「○○が世界を変える」ということへの疑念がありました。その疑念が僕に「終わりに」で「デザインしすぎない」という文章を書かせていました。

それでも、『ひらめきを計画的に生み出す デザイン思考の仕事術』を書いている時点ではまだ、「いま自分たちが置かれた状況をすこしでも良くしようと思って仕事をしているのなら、その仕事はデザインなのです」と思えましたが、いまはもう、良くしようと思って無理に何かすることがかっこ悪いと思えるようになり、僕にとってはポストデザインの時代です。

僕がこのブログでいわゆるライフハック的なことを書かなくなったのもそういう変化が僕のなかにあったからです。

何をそんなに変えたいのでしょう?

変える、変えるといいますが、一体何を変えたいのでしょう?

首相をころころ変えては喜んでいるように、とにかく現状が変化しなくては我慢できないのでしょうか。
Twitter上のTLを流れる情報のように刻々と世界が変わってみえなくては、落ち着かないのでしょうか。

一方で、刻一刻変化する世界には疎かったりします。
この変化は市場や経済、社会の変化を指しているのではありません。
植物がほっといても勝手に育ったり、子供やペットが成長したり、髪の毛や爪が伸びたり、人が亡くなったり、天候が変わったり、季節が移り変わったり、そういう変化に対しては関心を示さなかったりします。

そんなに人間の力で何かを変えたいのでしょうか。変える必要があるのでしょうか。
食物はすこし世話をすれば育ち、木々はゆっくりと育ちながら僕らにさまざまな恵みを与えてくれるというのに。

僕にはどうも単なる忍耐不足や堪え性のなさであるようにしか感じられません。

世界を変えたいのなら何もしなくていい

僕はいま、世界を変えるには、ある意味では何もしなくていいのかもしれないと思っています。
むしろ、何かをしなくてはとか、何か新しいものを生み出さなくてと考えるのをやめるだけでいいのかもしれない、とも考えています。

自分を見つめ、他人を見守るだけで世界は変わっていくのだろうと思います。僕らはいろいろ余計なことをやり過ぎてしまったのでしょう。自分たちが世界を変えられるなどと自惚れて。

いまなら僕は「デザイン」という言葉に「うぬぼれ」というルビを振るでしょう。

すこし落ち着いて立ち止まってみるべきかもしれません。
何もせずに立ち止まって、一呼吸つくのです。
深呼吸しながら、まわりを、自分を見つめてみるといいのかもしれません。
速度を落とし、座ってみる。腰を落として、上ばかりを見ていた視線をすこし落としてみる。

世界の動きのなかで自分を静かに留めおく

先日、北鎌倉の長寿禅寺を通りかかったときにたまたま特別公開で、畳に正座して庭を眺める機会がありました。

静かにぼーっと庭や室内の景色を眺めていると、普段とは違う世界が見えてきます。立った状態では気づかない見え方に、畳に正座した視点だと気づいたりします。
じっと座ってても世界が動いているのがわかります。
その動いている世界で僕はむしろ自分を静かに留めおきたい気持ちになりました。

世界を変えることへの執着心は、実はそんな自然な世界の変化を見落としてしまう余裕のなさが生み出しているのかもしれません。
実際にはあがけばあがくほど、何も変わらなくなっていくのに。

 

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この記事へのコメント

  • 愚樵

    はじめまして。愚樵と申します。

    どういうきっかけでかは忘れてしまいましたが、少し前から拝見させてもらっていました。
    今回は、

    >いまなら僕は「デザイン」という言葉に「うぬぼれ」というルビを振るでしょう。

    にちょっとシビれましたので、ご挨拶をと思いまして。

    アタマの中でなにかを考え出し、その考えは実現されるべきという思考回路の持ち主を私は“アマタデッカチ”と呼んでいますが、「デザインはうぬぼれ」の自覚は、そうした思考回路から脱却したところにあるものだと思いました。

    と同時に思ったのは「デザインはうぬぼれ」という人にこそ、デザインをして頂きたい、ということ。デザインを生業とする人が「デザインはうぬぼれ」と自覚するのはジレンマでしょう。しかし、そういったジレンマを抱いた人こそが、人間がもともと持っている「生命力」を伸ばすようなデザインを生み出す。私はそう確信しています。
    2010年06月19日 04:53
  • Tanahashi

    ありがとうございます。
    コメント、確かに受け取りました。
    それがまだデザインと呼べるかはわかりませんが、やってみましょう。
    2010年06月19日 11:39
  • suzu

    3年くらい前からずっと読ませていただいています。今回初めてコメントを書かせていただきます。

    初めて文章(考え)を拝見させていただいたときは、内容がおもしろいと思うもののデコレートされすぎててどこか不自然さを感じました。

    それが時を経るにつれ、おそらく書を通じて、経験を通じてどんどん洗練されていっているように感じました。

    そして、今回の記事。これまで読んだ記事で一番私の心に響きました。まだまだ変化されていくのでしょうけど、これからも楽しみにしています。(脈絡無くコメントを書いてしまって申し訳ありません。)
    2010年06月20日 16:00
  • 桝田良一

    ここのところ何もしないことにこだわってます。
    何が少しずつ変わるかを知るために
    2010年07月06日 08:08

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