2010年06月14日

私と踊って/ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団

ちょうど1年ほど前の2009年6月30日、ドイツのヴッパタール歌劇場バレエ団の芸術監督であるピナ・バウシュが急逝した。
6月8日から13日にかけて、新宿文化センター大ホールで行われたヴッパタール舞踊団の公演「私と踊って」は、彼女の追悼公演である。



その公演を6月9日の水曜日に観に行った。
僕がピナ・バウシュの作品を観たのは、今回が2回目である。

1993年に同じく新宿文化センターで「山の上で叫び声が聞こえた」が観て以来なので、実に17年ぶりだ。当然、僕もまだ20代前半である。彼女が創出した“タンツテアター”の独特の世界を観じながらも、暑い夏の日だったこともあってか、途中何度か寝てしまったことを覚えている。

それ以来のピナ・バウシュの作品観覧である。

結果から言うと、今回は眠るどころか、終始舞台で演じられる密度の濃い世界に圧倒され続け、終わり間近には自然と涙が出た。

すれ違う男女

さて、今回観た「私と踊って」は総勢27名のダンサーが登場する大作だ。主演となる男女2名に、多くの男女が絡んだダンス劇が繰り広げられる。

初演は1977年だという。
僕が前に観た「山の上で叫び声が聞こえた」もそうだが、数幕に分かれて演じられることの多いピナ・バウシュ作品にしては珍しく“全1幕”の構成となっている。

内容は、乱暴にいえば、男女の恋愛感情がすれ違うドラマである。

舞台では主演の女性が何度も「私と踊って」と男性に迫る。男性はその要求を受け入れることなく、女性をはねつける。「私と踊って」という女性の要求は、時には懇願の声となり、誘惑の声となり、叫びとなり、涙となり、絶望となる。
その男女のまわりでは、舞台に持ち込まれた木々を道具に男たちが女性を虐げるようなシーンが繰り広げられる。女性たちによって歌われるドイツの民謡。それをはねつける主演男性の言葉。救いようのない男女のすれ違いが無数に舞台に繰り広げられていく。

ダンスはことばで言えないすべての感情を表現することができる

そのあたりの男女のすれ違いは、5月24日に観た勅使川原三郎×佐東利穂子の「オブセッション」と重なる部分もある。だが、その類似がある意味2つのダンス作品をまったく対象的に感じさせる一因ともなっていた。

まず2つの作品は、同じように男女がすれ違う様を描いているのだが、表現に使う身体言語がまるで異なっているように感じた。

勅使川原さんの公演でのダンサーの動きは、先のエントリーでも書いた通り、プレ行為的で感情も含めた意味が生成する前の身体の痙攣のように感じられた。それはある意味で原始的、プレ意識的な印象を与える表現であった。
一方で、今回のピナ・バウシュ公演のダンサーたちの動きは理性からはみ出る感情が身体を通じて剥き出しになったような印象を受けた。ただ、それはどこまでも近代以降的であり、きわめて意識的である。
そして、意識的であるが故に、そこから伝わってくる痛々しい悩みは、僕ら現代人の感情に直接的に突き刺さってくる。

ピナ・バウシュ自身が「ダンスはことばで言えないすべての感情を表現することができます」と言っている。その言葉通り、今回の公演でも、言葉にしてもしきれない感情がダンサーたちの身体の動きを通じて表に出てきていた。

表現と相互作用

感情的である分、観ている側の感情との共振が起こりやすいのは今回のほうである。しかも、それがピナ・バウシュの作品の特徴なのだろうが、身体が表現している感情が一般的な感情ではなく、踊るダンサーそれぞれの個性を伴う感情なのだ。紋切り型に感情を表現するのではなく、あくまでダンサー個々の感情が表出されるというのは、まさに言葉としては伝えられない凄さがある。まったく恐れ入る。

再び、勅使川原さんの公演との比較でいえば、日本と西洋における人間の立ち位置、環境との接し方の違いのようなものを強く感じた。

まず、今回のピナ・バウシュの公演で感じたダンサーの表現は次の図のように、内から外への働きかけである。



言葉や意識としたはっきりとした形はともなわないまでも、あくまで内に表現すべき/されるべき何かがあって、それが外に向かって表出されるという構図である。

一方、勅使川原さんの「オブセッション」で観られたのは、それとは異なっている。単純に内から外へという一方向の表現がなされているのではなく、下図のような環境との双方向なやりとりの過程が身体の痙攣という形をとる。



それゆえ、勅使川原さんの公演では身体だけでなく、舞台そのものが痙攣する。痙攣は意味とならないまま、世界を揺さぶり続けるのだ。

前者が救われない状況に対する激情の表現につながり、後者が決定的なほど意味へと回収されることを拒むような原始性を感じさせるのは、こうした環境と人間との関わり方に根本的な違いがあるからだろうと感じられた。

2つの舞台を観ただけで、一方が西洋的で、他方が日本的だと断言するつもりはないが、対照的な2つの舞台芸術であったのは確かである。
このあたりは今後、いろんなダンス公演を通じて探っていくことにしたい。

総合芸術としての舞台

最後に、前回の勅使河原さんの公演の時も感じたことが、ダンス公演のような舞台公演というのは、まさに総合芸術だなと思った。

今回の公演でも舞台美術が素晴らしかった。生の木を持ち込んだり、舞台背面に向けて設けられた壁のように立ち上がったスロープなどが、ダンサーの表現と一体となっている。
歌や声の使い方、衣装なども素晴らしい。もちろん、ダンサーの身体やその動きに彩りを加える照明もだ。そうした人間が五感を通じて感じられる様々な要素がダンサーの身体表現を中心に組み立てられる。まさに総合芸術である。

舞台芸術というのは、単にライブ表現だからいいというのではない。身体、声、光、音、そして、自然物と人工物の入り交じった様々な物質などの、人が五感で感じられる要素が統合的に1つの作品を織りなすというところに特色があるのだろう。同じようなドラマ性をもっていても映画やテレビなどでは表現できないものがそこにはある。

これからも興味をひく舞台作品があれば積極的に足を運ぶようにしたい。



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posted by HIROKI tanahashi at 20:47| Comment(0) | TrackBack(0) | アート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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