何が美なのかではなく、美は人間にとって、どんな価値なのだろうか、と。
美に関することが苦手な人は少なくない。自分には美的センスがないと頑なに信じている人がいる。
どうして、そんなに美を忌避するのだろうか?と思う。
美を感じるセンスは個性だから、教育などを通じて学ぶことはむずかしいともいう。
だが、それは答えになっていない。
美を感じるセンスは僕も個性だと思うが、では、ほかの知力や価値観や行動力はどうなのだと思うからだ。それらも個性以外のなにものでもないが、それらが美に対するような頑なな忌避の態度が示されたり、教育に対する絶望的な見解が示されたのをみたことがないからだ。
明らかに、美に対しては、他のものとは異なる何かが働いている。
そうした否定的な側の態度も含めて、美とは人間にとって、どんなものなのだろうか、と考えているのだ。
さて、当然ながら、こんな問題に最終回答はない。
答えがないと不安になる方には酷だが、そういうものだ。
だが、最終回答はないにしても、答えらしき仮説を紡ぎ出すことはできる。
そのいくつかをここで書いてみたい。
ちょっとした工夫があるとないのとでは
僕は昔から自分自身のファッションに興味があるのは当然として、同時に、女の子のファッションに興味がある。かつては不定期に女性ファッション誌を立ち読みしたりしていたし、女性といっしょにレディスの店に行くのも楽しみにしている。また、街でかわいい服を着た子がいると眼で追いかけてしまう。さすがに自分が着るわけではないので、それがどこのブランドの服かなんてことはわからない。ただ、その着こなし方には興味があって、かわいい服でも単体で判断するよりもコーディネートの仕方だったり、袖や裾のまくり方やボタンの留め方、サイジングなどを見てしまうのだ。
見ていてわかるのは、かわいい服だなと思えるのは、たいてい、服そのものの良さだけでなく、着こなしに工夫がされている場合だ。裾や袖のまくり具合、洗いざらしのしわなども含めた小さな工夫が生みだすトータルな雰囲気が僕の眼には留まる。
それはファッションだけでなく、家で花を飾る場合でも普通に花瓶に飾るのではなく水差しなどに活けること、食卓の器をうまく組み合わせてテーブルコーディネートすることなどの、いわゆるインテリアコーディネートにもいえることだし、食そのものの調理やメニューの決め方などにも言えるだろう。
はたまた、そうした生活のシーン以外でも、旅館でのもてなしや、仕事の場でのプレゼン、イベント会場や店舗の設えでも同様で、売られているものをただ買ってきて並べたり、マニュアルどおり杓子定規にしたのでは、雰囲気は出ない。そこにちょっとした工夫が加わるからこそ、魅力的な雰囲気が醸し出せるのだ。
工夫があるとないのとでは、同じものを使っていても、見え方はまるで違うのだ。
美しい生活のための工夫
つまり、どんなにデザインのよいものでも、単に買ってきて置けばよいというものではない。買ってきたあとに、自分でなんらかの工夫を加えるから映えるのだ。その点、工夫がしにくい製品はつらい。家電製品、デジタル機器の類いがそうだiPhoneのようにカバーなどが充実してるものはまだ良い。そうでなければデコるというちょっと大がかりな工夫となる。だが、あれは女子には向いても男性には不向きなので、男性は工夫に困るだろう。その点、工夫がいくらでもできる服やインテリア雑貨などは工夫次第で自己表現もしやすい。その意味では、むしろ、男性がデジタル家電やクルマのような、それ自体で完成されたデザインのものを好みがちなのは、自分の工夫に自身がないことの裏返しだったりする部分もあるかもしれない。
いずれにせよ、こうした工夫は、自分の生活をすこしでも自分の美的価値基準にあったものに近づけたいという気持ちの表れだろう。
相対的にみると、自分らしさを追及して、工夫をするのは女性の方だろう。もちろん、男性にも工夫好きな人は少なくなく、僕自身もその類いだ。
前にも書いたことがあるが、僕は基本的にモノは買ったばかりか一番カッコ悪いと思っていて、汚れたり、傷ついたり、身体に馴染んだりしてきてはじめてカッコよくなるし、工夫のしがいもあるようになると思っている。
工夫は、自分のなかにある美の基準を実現するためのモノとの共同作業だと思う。
身の丈にあってくる
実はこうした工夫をしていると、身の丈にあわないものは、段々と求めないようになってくる。逆に、自分なりの工夫をせずに、買ってきたものをそのまま使っているばかりだと、次々新しい商品が発売される度に欲しくなってしまう。自分の工夫で新しい雰囲気を作れないのだから、ある意味、当然かもしれない。
もちろん、それは必ずしもモノを買わなくなるということではない。相変わらず散財は続くことも少なくない。
ただし、買う基準が変わってきて、自分の美的基準にあったものか、その基準を拡張してくれそうなものを選ぶようになる。カンタンにいえば、観る眼ができてくるのである。
うまくいけば、これは身の丈にあった生活をつくることにもつながるし、さらに磨けば清貧というものにもつながるはずである。
美しい生活を探しに行く旅は、実は身の丈にあった清貧な生き方を探しに行く旅にもつながっているように思う。これに関しては、あらためてちゃんと考えてみたい。
主観を磨く
それは必ずしも一般的に良い品を選ぶ眼が育つというのではない。自分の好み、自分の美の基準が明確になるだけだ、それはきわめて主観的な基準であって、美はこういうものだということを何ら示すものではない。であるにも関わらず、そういう人が選んで使うモノは傍からみてもセンスを感じさせたりする。すくなくとも雰囲気を感じさせる。自分の趣味とは一致しなくても、美しく感じたりもする。
これが不思議なところだ。美はきわめて個人の主観から選択的に生まれるにも関わらず、好き嫌いを考慮しなければ、ある程度のセンスを他者にも伝えるのだ。
いずれにせよ、美をわかるようになるというのは、主観を磨くということであって、これが美だと定義できるものではない。むしろ、客観的に美を見出そうとした瞬間、美は逃げていくだろう。
芸術家の作品が美を表現できる可能性をもっているのも、作家が徹底して自身の主観にこだわるからだろう。
一方で、なぜ美を忌避する人がいるかとい理由のうちのひとつもそこから見えてくる。つまり、自分に向き合うことが苦手で、客観的な見方、判断がなければ生きられない人にとっては答えのない/答えを自分のなかから見つけ出さなければいけない美は触れることが不安なものなのだろうと思う。
実は、これ以外にも思い当たる理由がもうひとつある。それに今回書いたような領域以外にも、崇高な美や枯れた美、凍てつき痛みを伴うような美もあって、それについても考えているのだが、今日のところは、このへんで。
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