2010年06月08日

観じる民藝/尾久彰三

素敵な本だ。
本というよりも、むしろ、モノという雰囲気がある。
著者が集めた素敵な古民藝300点余りがカラー写真で収められた一冊は、美しい玉手箱を手にしているようなのだ(本物の玉手箱を観たことなんてないけど)。
「感じる」ではなく、「観じる」とはよく言ったもので、観ることの心地良さを再認識させてくれる。

本書の著者は、長く日本民藝館の学芸員をされた方である。
柳宗悦に私淑して富山で日本民藝運動を推進していた叔父の影響もあり、10代の頃からモノ集めに開眼したという。
高校生になってからは、月に2回ほど、叔父の飛騨高山での古民藝品収集に同行して、モノを観る眼を養った。はじめは何がいいのかわからなかったものも、そのうち、自分で気になるモノを手に入れるようになった。
長じてから日本民藝館の学芸員になったのは自然なことだったのかもしれない。
そんな著者が昨年、日本民藝館の学芸員の職を辞した。

この本には、永年かけて著者が日本国内だけでなく、海外からも集めた1000点あまりの古民藝のコレクションから厳選された300点あまりが掲載されている。
珠玉のコレクションといっていい。

僕自身は、この本を読んで(観て、といったほうがいいのかもしれない)、これまで民藝に対してもっていたイメージを大きく変えられた。

ただ美のみを味わう

この本の見所は何よりそうした古民藝の品の数々である。読むというより、何よりそれらの写真を食い入るように観た自分がいた。

江戸時代を中心とした古い絵付けの器の素朴ながら力強く味わいのある風情や、焼き絞めた壺の野趣あふれる表情に感嘆し、李朝時代の石を刳り貫いてつくった蓋物の器や水差しの意外さに驚いた。



今更ながら気づかされたのは、木や石の固まりから削り出して器にするのと、粘土などを轆轤の上で回しながら形を作り出すのとでは、最終的に作りたい形が似ていても、できてくるモノはまったく別物だということだった。
前者にあたる木彫りや石工の器と、陶器や磁器の器では、一見似たような形をしていても、その存在感や、色気、佇まいといったものがまるで異なるのだ。
それはあらためて観じた/感じた驚きだった。

どうしたら美がわかるか

そんな古民藝の品の魅力ある写真が何より、この本の見所ではあるが、同時に、柳宗悦の言葉を引きながら、自らのモノを観る眼を語った言葉にもなるほどと納得させられた。

何より、ひたすらシンプルにモノの美を見出す姿勢は、ごくごく未熟ながら僕自身のモノの見方が決して間違いではないことを教えられた気がした。
特に、どうしたら美がわかるようになるか?ということに対する著者の処方箋は、僕には非常に納得のいくものであった。

著者は、柳宗悦さんの唯一の書生であった鈴木繁男さんが、柳さんの入居した日の夜、鈴木さんの持参した様々な書物をすべて取り上げた上で言った、次のような言葉を紹介している。

「君はこれから民藝ということを勉強するのだが、本を読むより先にすることがあるんだよ。すべて行動が先なのだ」。「私の書いたものを本当に分かろうとするなら、まず読むよりも先に行動を起こさなきゃならんよ」。「行動が分かると僕の書いたものは全部分かるはずだ」。

何を買うにも実物に直に接するより先に、さまざまな情報から知識を得ようとする、現代のモノ選びとは正反対である。
柳さんは、鈴木さんに、書物から得る知識より前に、直接モノに触れて得る知識の大切さを伝えたのである。
柳さんが鈴木さんから取り上げた本は柳さんが亡くなってからも鈴木さんの手元に戻ることはなかった。

モノに直観で向き合う

だが、柳さんが言ったことも所詮は言葉である。
柳さんは明くる日から鈴木さんにさらに実践をもって、それを教える行動に出る。

まず、何か包みに入ったモノを鈴木さんの前に置く。鈴木さんはそれを観てみろということなのだろうと思って、手に取って眺める。もちろん、柳さんからは何の説明もない。

鈴木さんが手にしたモノを眺めていると、柳さんからはこんな言葉が飛んできたのだそうだ。

「僕が君の前にモノを出したら、すぐに間髪入れずに反応しなさい。これからときをえらばず、場所を選ばず、毎日やるからね。阿でも吽でもいいから、観たらすぐに何かを言いたまえ。まごまごしているのはだめだよ」

柳さんは何より直観を重視する人だった。あれこれ眺めて考えて出てくるものよりも、直観的に感じる/観じるものを大切にした。

それゆえの言葉だったのだろう。

そうして柳さんがモノを差し出し、鈴木さんがそれに感じた/観じたことを口にするということが毎朝の日課のように3年間繰り返されたそうだ。
はじめは自分にわからないものをわからないと評するのに躊躇していた鈴木さんも、次第に感じた/観じたとおりを口にすることができるようになり、柳さんと意見が食い違うことも何度かあったが、柳さんは「君もわからんやつだな」というばかりで、自分と意見の異なる鈴木さんの意見を否定しようとはしなかったそうだ。

そんなことの繰り返しで3年経ったある日、鈴木さんは今度の展覧会の飾り付けを君がやるようにと柳さんに申し付けられたという。鈴木さんは最初、自分にはできないと断ったが、柳さんは大丈夫だと言って鈴木さんにやらせた。
仕方なくやってみて柳さんに見せると、柳さんはすこし手直ししただけで、これでいいんだ、と言ったそうだ。

鈴木さんはその時はじめて、自分が3年間、何を学んできたかがわかったという。

そういうことのあとに柳さんの本を読むと、なるほど読むのはあとでいいんだと感じたそうだ。

モノと向き合うところに美は生まれる

著者自身も、高校の頃に叔父に連れられて何度も飛騨高山に行って、様々なモノを選び出す叔父の姿を観たことが、民藝の美を自然にわかるようになった勉強だったと言っている。

それは程度は明らかに劣るものの、僕自身にも非常によくわかることである。僕自身もとにかくこれまで、いろんなモノを自分自身の直観で選びながら、多くの失敗を重ねながら自分の好みがわかるようになってきたと思っているし、いまなお、自分の眼を一層養うために積極的にいろんなモノを観て使ってみようとしている。

結局、自分自身でモノに向かい合って見なければ、モノの美など分かるようにはならないのだ。
誰かのお墨付きやレビューなどの情報を介してしか、モノにむきあうことをしなければ、自らの美の判断基準が形成されてくるわけはない。

美はモノの中にあるのではなく、美を見出す心のなかにあるのだ。

柳さんは「求める心が肝心であって、凡てを素直に受け容れる用意をすれば、美しさの方から囁いてくれるでせう」と、「どうしたら美がわかるか」という論文に書いでいるそうだ。

その囁きを耳にするためには、自分の頭でっかちな固定観念や、小うるさいばかりの他人の評価などは忘れて、真っ直ぐにモノと向き合うことが必要である。

僕らはモノの機能ばかりを追いかけすぎな嫌いがある。モノが自分に対して何をしてくれるのか、どんな有益さがあるかということばかり気にして、モノに甘えている。
そして、甘えているばかりで、本当のモノの姿を真っ直ぐに観ようとしていないのだ。

モノを引き受け、モノに溺れる。
モノの声を聴き、モノと語らう。
そのとき、モノは単に求められるのではなく、そこに在るものとなるのではないか。

それは物質的消費社会からの脱出にもつながるだろう。
物の魂の世界への回帰にもつながるだろう。

日本人はかつてモノに靈を、神を観つけることができた人々だったはずだ。

コレクション展「観じる民藝」

さて、僕自身、まだ本を読んで知ったばかりで、行けていないのだが、タイミングよく横浜そごうで開催されている同名の展覧会で、本書で紹介された尾久さんのコレクションを観ることができるらしい。

これは近いうちに、ぜひ観に行こうと思っている。

「尾久彰三コレクション 観じる民藝」
横浜そごう
2010年5月29日ー7月4日
http://www2.sogo-gogo.com/common/museum/archives/10/0529_mingei/index.html

皆さんもどうでしょうか?
読んでから観に行くもよし、観てから読むもよし。



関連エントリー
ラベル:民藝
posted by HIROKI tanahashi at 23:38| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック